「倭国独立と倭国年号」天皇系図にもあった倭国年号 | 古代史ブラブラ

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古墳・飛鳥時代を中心に古代史について綴ります。

服部氏が説明される「古田武彦氏の多元史観で古代史を語る」シリーズの「3.倭国独立と倭国年号」の「天皇系図にもあった倭国年号」に関する動画の「ポイント」と「所感」は以下のとおり。

 

「ポイント」

・倭国の九州年号は、517年から日本国への王朝交代する700年まで続いたが、その九州年号を天皇家も使っていた。学校で教える「大宝」以前に、200年近く続いた年号があった。502年以降、独立した倭国が517年に年号を始める(継体)。607年「日入処天子」(光元)。663年「唐・新羅に敗戦(白村江の戦。白鳳)」。

 

・607年の遣隋使では、対等外交を標榜。「日出処の天子が書を致す。日没する所の天子は恙無しか」。100年前無くなった冊封を受ける理由(中国からの侵略リスクの回避)がまた復活していたが(608年、隋が琉球を攻めて滅ぼした)、この時、倭国は冊封を望まなかった。

 

・日本国天皇家は、天武天皇から文武天皇まで、自らの系図に九州年号を用いる立場であった。現存する最古の天皇家系図である『本朝皇胤紹運録』は、1426年、後小松上皇が内大臣洞院満季に命じて作らせた帝王系図。

 

・「大化」という年号は『日本書紀』では645年に始まるが、九州年号でも同じ「大化」があり、こちらは695年に始まる年号。天智天皇の段では、日本書紀記載の大化年号つまり大化元年=645年で表記しているが、持統天皇の段では、九州年号の大化を用いている。2つの大化年号を使い分けている。天智天皇の段では著者はわざわざ「孝徳大化」とことわっている。ここは九州年号の影を背負った表記と言える。持統天皇の段では、九州年号の「朱雀(元年=684年)」が出てくる。ただし朱雀は2年までなので朱雀5年はありえない。持統天皇の即位は朱鳥元年(686年)の天武崩御から称制を経て、持統四年(690年)の即位。つまり、九州年号の朱鳥五年(690年)になる。朱雀→朱鳥の間違いである可能性が考えられる。文武天皇への譲位が大化三年(697年)とあり、これは正真正銘、九州年号の「大化」である。文武天皇の「白鳳」および「大化」は九州年号に基づいて記載。1426年(室町時代)の内大臣洞院満季は九州年号を承知していた。

 

・九州年号表記は、天皇名で言うと、「天武~文武天皇」まで、九州年号で言うと、「白鳳・朱雀・朱鳥・大化」に限られている。ここからは推測だが、「天皇家は少なくとも天武天皇以降、自らの系図に九州年号を用いる立場に立った」、「その理由は、冊封関係・直轄統治関係・姻戚関係などか、今後の検討課題:賀正礼記事もヒントになる」、「701年(大宝元年)以降、その関係は逆転する」。

 

・隋書倭国伝には「正月一日になれば、必ず射撃や飲酒をする。他の節句は中華とほぼ同じ」とあり、元旦の射撃・飲酒は倭国独特の行事・習慣だったということになる。『養老律令・儀制令・元日条』には「元日には親王以下の人を拝賀してはならない」とある。元旦に行う「賀正礼」は天皇へ拝賀し飲酒する式典だったようである。日本書紀では、孝徳記になって初めて「賀正礼」の記事が現れる。孝徳天皇は天皇として賀正礼を受ける立場で無い。賀正礼を見学して、その後自らの住居に帰っている。『養老律令・儀制令・元日条』の内容とは異なる。

 

「所感」

・室町時代(1426年)の内大臣洞院満季がどの様にして九州年号(517年~700年)を承知していたか(九州年号の終了から700年以上が経過)について確認したい。

 

・九州年号表記は「天武天皇から文武天皇」に限られており、「その理由は、冊封関係・直轄統治関係・姻戚関係などか今後の検討課題」とあり、「天武天皇から文武天皇」の時代の特殊性について注意を払いたい。