「倭国独立と倭国年号」白鳳は倭国の年号 | 古代史ブラブラ

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古墳・飛鳥時代を中心に古代史について綴ります。

服部氏が説明される「古田武彦氏の多元史観で古代史を語る」シリーズの「3.倭国独立と倭国年号」の「白鳳は倭国の年号」に関する動画の「ポイント」と「所感」は以下のとおり。

 

「ポイント」

・倭国は502年以降、中国との冊封関係を清算し(中国の年号を使わなくてよくなった)、独立し、自前の年号を作る。この年号は、517年から始まり、倭国が日本国(大和朝廷。近畿天皇家)にとって代わられる700年まで続く。江戸時代の書に『九州年号』とあるので、以下『九州年号』とする。「継体」から始まり、「大化」で終わる。701年の「大宝」に続く。

 

・「白鳳」は661年から23年間続く。政治史上の白鳳時代は消されたが、美術史上の白鳳時代は今も残る(白鳳文化、白鳳美術、白鳳寺院)。「白鳳」は倭国の年号である。歴史学者は、白鳳は『日本書紀』に無い年号だ。これは間違いだ。変えよう、と主張している。放っておれば、近い内にそうなる。倭国の年号が消されていく(白鳳短期大学、伊賀白鳳高校、奈良白鳳カントリー倶楽部)。

 

・代表的な九州年号史料『二中歴』。「継体」と言う年号が五年続いた。継体元年(517年)は丁酉の年。「白雉」「朱鳥」「大化」の3つの年号は『日本書紀』に出てくる。『二中歴』では、九州年号は517年に始まり、184年間、700年まで続き、(大和朝廷の)大宝に引き継がれる。

 

・古田武彦氏は『失われた九州王朝』において、「中国正史に書かれた倭国と日本国の関係からすると、517(継体)~700年(大化)にわたる九州年号は、倭国の年号である」と解明した。

 

・テレビによく出ている所功氏をはじめとする歴史学者は、九州年号は、鎌倉時代の僧侶か仏教関係者が作った私年号とする。一方、九州年号が記された古記録(全国各地の寺社縁起など)は以下のとおり存在(一部のみ記載)。九州年号は、全国各地で、奈良時代および平安時代において、神社・寺・天皇家の系図に現れる。所功氏が言うような鎌倉時代の僧侶が作った私年号ではない。

 ・「善記」(522~525年):諏訪大明神絵詞

 ・「僧聴」(536~540年):宇佐八幡宮縁起

 ・「貴楽」(552~553年):肥後国誌

 ・「蔵和」(559~563年):会津正統記

 ・「師安」(564年)   :善光寺縁起

 ・「金光」(570~575年):聖徳太子記、平家物語

 ・「賢接」(576~580年):聖法輪蔵

 ・「鏡当」(581~584年):聖法輪蔵

 ・「勝照」(585~588年):聖徳太子伝記

 

・九州年号は『日本書紀』にある天皇崩御年に改元していない。奈良時代~平安時代(710~1192年)の39代天皇のうち37代の天皇崩御により、その年あるいは次の年に改元が実施されている。九州年号は、大和朝廷とは別の王朝の年号。九州年号は、九州に日本を代表する王朝があって、これが701年に王朝交代して消えた証拠。これは、中国正史(旧唐書)の記述通りの姿。

 

・ジョアン・ロドリゲス(1577~1610年まで33年間日本(長崎・大分など)に住みついたイエズス会の宣教師)が作った教科書『日本大文典』に九州年号が記載されている。『日本大文典』には以下のとおり記載。

 「日本の第1代の天皇は神武天皇と言う。刊本の「王代記」の計算によると、紀元前660年前に始まっている。その時代の少し前に、日本は、歴史家達が言っているように、支那か、朝鮮か、一部は蝦夷か、又はこれらあらゆる地方から植民したと思われる。これらの地方の者はすべて日本人に関係しているからである。その時から西暦522年までは、日本人は年号と呼ぶものを使わなかった。この年に始めて善記と言うのが用いられ、それ以後現在まで元号が続いている。」

 「年号を表示することについて、日本人の間に二つの意見がある。一つは西暦522年に、善記を以て第一の年号が始まるというものであり、今ひとつは刊本の「年らい記」のように、西暦701年に始まる大宝を以て初とするものである。後者の方に確実さが多いように思われる。しかしながら、書物や歴史には大宝以前の別の年号が記述しているので、善記から始めよう。」

 

「所感」

・大和朝廷の年号とは異なる、継体(517年)~大化(700年)の九州年号が存在したことには異論ない。

 

・517~700年の期間の大和朝廷の年号は、元々存在したものなのか、あるいは後に創られたものなのか(いつ創られたのか)について確認したい。