この前のイベントで、くすぐられていると飲み物が飲めないと言うと、
「ん?じゃあ、くすぐられててもくすぐったいと思わなければいいんじゃない?」と言われて、
この答えはあるのだろうかと考えました
つまり、
「くすぐられたから、くすぐったいと感じる」のか、
「くすぐったいと感じたから、くすぐられた」のか
「存在が先か感覚が先か」という問いかけに真剣に考えてたバークリによると、
「存在することは知覚されていること」になる
普通は、
「何かが存在しているから、私たちが知覚できる」という、存在→知覚の順番で考えがちだけど、
実はそうじゃなくて、
「私たちが知覚できるから、その何かは存在してる」といえる(知覚→存在)らしい
だから、バークリのルールでは、
くすぐっているとくすぐりになるんじゃなくて、
くすぐったいと感じたらくすぐりになる
確かに、くすぐっているつもりでも、痛かったらそれはくすぐりではない気がするし、
マッサージしてるつもりでも、くすぐったかったらそれはくすぐりになる気がする
(カント的に言うと「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」みたいなこと?)
でも、なんか腑に落ちないところもあり、
「はーーーーぁ、こちとらくすぐってるのに、相手が不感症だった場合はくすぐってないことになるんですか、それはおかしくないですかバークリさん」というぐりの問い合わせもあると思いますが、
それに対しては中世の哲学者らしく「人間が知覚してない場合でも、神は知覚してるから存在している」という回答らしいです、、、?
ぐりの人、安心してください、なんか神様をくすぐってるらしいです。知らんけど
ちなみに、バークリの跡を継いだヒュームによると「人間は知覚の束」なんだそうです。なんかえっちですね
くすぐりが本質かくすぐったいが本質か
話を戻すと、
くすぐっている/くすぐっていない という行為(存在) と、
くすぐったい/くすぐったくない という感覚(知覚) の、
どっちがくすぐりの本質なのか
行為と感覚の組み合わせで場合分けして考えてみました
ぐら目線の「くすぐり」って何
「くすぐられている×くすぐったい」と「くすぐられていない×くすぐったくない」の2つは明確なので省略するとして、
「くすぐられていない×くすぐったい」
→くすぐり〇~△
相手はマッサージしてるつもりだけど、自分はくすぐったいとかは、たぶんくすぐりになると思う
または、触れてないけど手をわしゃわしゃ動かしてて笑ってしまうとか
「くすぐられている×くすぐったくない」
→くすぐり△~×
相性もあると思うけど、やっぱりくすぐりとして満足することは少ないのではと思う
めちゃくちゃ憧れの「ぐり」がいたとして、その人にかまってもらえているという高揚感とかならあるのかも
ぐり目線の「くすぐり」って何
「くすぐっている×くすぐったがっている」と「くすぐっていない×くすぐったがってない」の2つは同じく省略して、
「くすぐっていない×くすぐったがっている」
→くすぐり〇~△?
さっきのエアくすぐりとかの場合はくすぐりになるかな
ただ、ぐりからすると、相手が本当にくすぐったいのかという感覚は共有されていないので相手の反応しか手掛かりがない
だから声とか表情とか体の動きとかでくすぐったがっているか判断するけど、本当に何もしてないときにくすぐっているときと同じ反応があったとしてもくすぐりにはならない気がする
反応があれば全部くすぐりってしてしまうと、笑い上戸の人はずっとぐられてることになってしまう
「くすぐっている×くすぐったがってない」
→くすぐり△~×?
これも、さっきと同じであこがれの「ぐら」がいたとしたら高揚感があったり、
もしくは最初感じてないのをじわじわ落としてやるみたいな楽しみ方はあるんだろうけど、
でも最終的にまったく反応がないとやっぱり満足はしないんじゃないでしょうか、どうなんですかぐりの人
くすぐったい感覚が本質…?
以上の結果を踏まえると、ぐりぐら界の「くすぐり」はなんとなく、
くすぐっている「行為」よりも、
くすぐったい「感覚/反応」のほうに本質を見出している気がする
くすぐったい「感覚」って何
くすぐったい感覚はくすぐられたときに感じるあの感覚だけど、
くすぐられずにくすぐったい感覚だけが、発生することはあるのか、
あったとしてそれをくすぐられたときのくすぐったいと同じように感じるのか
ウィトゲンシュタインが考えるには、人間はことばを正しいルールで使うゲーム(言語ゲーム)に参加してるという
たとえば、転んでケガをしたときに「くすぐったい」と言うと、「それは、くすぐったいじゃなくて痛いだよ」と訂正される
こんな感じで、言葉として正しく使っているかを見ることで、
自分の感覚と他人の感覚が同じものかを確かめることができる
だから、よくある幽霊にくすぐられるとか、藁人形をくすぐったら連動してるみたいなことが実際に起きたとして(起きたら普通に病院に行きそう)
そのとき、「くすぐったい」と言っても「それはくすぐったいとは違うよ」と訂正されると思われる
逆にそのくすぐったさが自分にしか感じられない新しい感覚(自分にしかわからない「感覚E」)だったとしても、
それは結局、未来の自分も含めて誰からも使用方法を訂正されない感覚(私的言語)になってしまうので、
言語ゲームに参加していないので、でたらめな感覚になってしまう
あと、ニューラルネットワークでは、脳が知覚から行動を起こし、その直後に認識がついてくるともいわれていて、
その場合、くすぐられてからくすぐったいと認識したから笑うのではなくて、
笑ったという行動の後にくすぐったいという認識が発生しているらしい
結局、くすぐったいと感じるためにはくすぐる行為が必要になるし、
くすぐったいと感じるときにはくすぐったがる行動をとっている、
これらは「くすぐり」と認識した際にセットで発生している気がする
くすぐったがっている「反応」って何
ぐらがくすぐったがっているように見えたとして、本当にくすぐったく感じているかはわからない
ぐらは最悪感覚を感じれればいいので目隠ししてでもプレイできるけど、
ぐりは相手の反応が手掛かりになるから、相手のルックスや反応を重視するとか聞いたことがある
チャーマーズが考えた哲学的ゾンビという説だと、他人が本当にくすぐったいなどの感覚(クオリア)を感じているかはわからないそう
哲学的ゾンビは人間と同じく、くすぐったかったら「くすぐったい」と言うし、キレイなものを見ると「キレイ」と言う、プレゼントを渡したら喜んでいるけど、
人間と違って感覚(クオリア)を感じる心がなくて、ただただ機械的に反応してるだけ
同じ感じでサールが考えた「中国語の部屋」という妄想(思考実験)では、
部屋の中にまったく中国語ができない人と、何でも書いてある完璧な中国語手紙への返信マニュアルがあるとする
その部屋のポストに手紙を入れると毎回完璧な中国語で返事が返ってきたとき、
その部屋の中に中国語ができる人が住んでいると思ってしまう
つまり、
ちょっとくすぐったらちょっと反応して、めっちゃくすぐったらめっちゃ反応する、
くすぐらなかったら物欲しそうな目で見るぐらロボットがいたとしたら、人間のぐらとの区別がつかないはず
昔、くすぐりロボットができるとぐらは満足するけど、ぐりは人間でしか満足できないと聞いたことがあるけど、
完璧なくすぐられロボットができたとしたら、人間と区別がつかなくなるはず(人間だって哲学的ゾンビと同じ)
それでもやっぱり人間をくすぐりたいんだとしたら、それはくすぐったい感覚(クオリア)を重視していることになるのかと思う
ここでもやっぱり、くすぐる行為とくすぐったがる反応だけじゃなくて、くすぐったい感覚の3つがそろっておく必要があるように思える
結論
くすぐりの本質は「くすぐるという行為」よりも「くすぐったい感覚/反応」のほうが重視されているぽく、
「くすぐったい感覚/反応」があるときに、それを「くすぐり」とみなす
でも「くすぐったい感覚/反応」には、マッサージしてるつもりでも、エアくすぐりでもいいので原因となるなんらかの「くすぐる行為」が不可欠で、
行為、感覚、反応は必ずセットでそろっている