ぐりぐら哲学論考

ぐりぐら哲学論考

Draco Dormiens Titillandus

彼女とくすぐりプレイしていた時に、

ふと「え、くすぐりに種類とかあるの?全部いやーって感じじゃないの?」と言われて、

えーそんなことないよーとなったので、今回はそのテーマで書いてみますー

 

くすぐりのタイプはある?

ソフトなクニスメシス

実はソフトなさわさわ系のくすぐりには「クニスメシス」という名前がついています

本来は虫が来た時の防衛本能としての不快な信号らしく

皮膚のすぐ下にあるマイスナー小体というとこで感知するらしい

マイスネル小体 - 基素基

ハードなガルガレーシス

一方で、ハードなゴリゴリ系のくすぐりには「ガルガレーシス」という名前がついていて

皮膚の深いとこにあるパチニ小体で感知するらしく、

奥にあるので強めの刺激じゃないと感じないそう

ちなみに、ソフトなくすぐりは自分でやってもムズムズ感じるけど、

ハードなくすぐりは自分でやってもくすぐったくないという違いがある

たしかに、ムズムズは自分でやってもなるかも

(実はこれ、愛撫の天国の気持ちよさはマイスネル小体で感じていて、

亀頭責めみたいな地獄の気持ちよさはパチニ小体で感じるらしいです、えつち)

 

自我の崩壊と他者の存在


くすぐられて笑うには、絶対に自分以外の存在が必要になります
一人で恋愛ができないように一人でぐりぐらもできないのです

 

予測不能の存在がいるからこそくすぐったく感じるのであり、

その瞬間に「自分以外の存在が存在している」ということを身をもって実感できる体験でもあります

頭ではやめてほしいと思いつつも身体が反応してしまう、

笑いたくないと思っても笑ってしまう、

これが自分の身体が自分のコントロールを離れてある種の他者になる体験でもあります

身体が自我の支配を逃れて、ただの動物・肉体に分離される瞬間なのです
(実際にオーガズムの瞬間に脳の理性をつかさどる部分が完全停止するらしいよ、いやえつち)

ちなみにフランス語では絶頂のことを「La petite mort(小さな死)」と呼ぶようです

確かに、自分で自分がコントロールできなくなる、

身体がいうことを聞かなくなることを「死」と表現するのは理性を重視するフランス人らしいなという

ダナエ 絵画 クリムト」の人気商品一覧 | 安い商品を通販サイトから探す - 価格.com

ドーパミンとエンドルフィン

ソフトなドーパミン

愛撫のときに分泌されるのが「ドーパミン」です

ドーパミンは純粋な気持ちよさそのもとというよりも、

この後に本当の気持ちよさが来るぞと期待するときに生み出されるホルモンなんだそうです

「愛する人が触れている」「これからもっと強い快感が来るかもしれない」といった期待感からきます

もともとは獲物を狙っているときに出てくるもので、

何かを成し遂げる期待やワクワクに満ち溢れている感じです

 

ハードなエンドルフィン

一方で、ハードな刺激のときに発生するのが「エンドルフィン」です

エンドルフィンはモルヒネの数倍の作用があるともいわれる、

激痛やストレスから脳を守るための物質で、

筋トレで限界を迎えそうなときや激辛料理、ハードなくすぐり(ガルガレーシス)などで分泌されます

エンドルフィンとドーパミンが結びつくことで、気持ちよさと幸福感に変換されるそうです

 

嫌なことでもフェチにとってはドーパミンになる

ちなみに、普通の人がソフトなくすぐり(クニスメシス)で感じるのは、

かゆみを感じる「ヒスタミン」ですが、

 

くすぐりフェチのような変態にとっては、

これがより強い刺激への前段階としてワクワク感につながり、

ドーパミンが出るらしいです。変態ですね

 

ソフトなことでもエンドルフィンになる

一方で、期待していた次のステップになかなか進まないとなると、

期待が裏切られてフラストレーションがたまり、

苦痛・ストレスとなってエンドルフィンが出るみたいです

ずっとソフトなくすぐりが続くとハードになるという話や、

焦らしプレイなんかがこれのパターンですね

ハードな刺激がこないにも関わらずエンドフィンが出てトランス状態になるそうです
 

愛情ホルモン「オキトシン」

ちなみによく愛情ホルモンと呼ばれる「オキトシン」は

「C触覚線維」という神経で感知するもので、

オキトシンが分泌されるとリラックスした状態になります

脇の下や首、お腹など、くすぐったい場所はすべて「動物としての急所」なので、

本来であれば危険信号がでるところを、

これはプレイだ安心できると感じるためにオキトシンが重要です

くすぐりで楽しむためには

オキシトシンによる「他者への信頼と愛着」が根底にあります

命綱があるからバンジージャンプが楽しめるみたいな感じで、

この人には身体を任せて大丈夫という安心感があるから

ギアを外して楽しめるというわけです
 

まとめ

くすぐりやSMなどで、

くすぐったい感覚や痛みは本来危険信号として受け止められるべきはずが、

プレイ相手への信頼によるオキトシンで警戒モードが解除されます

このときに刺激を「もっと欲しい!」と期待感が膨らむのがドーパミンで、

くすぐったくて我慢できない、痛くてもう限界ってなった時に出てくるのがエンドルフィンで、

 

エンドルフィンとドーパミンが混ざって、

ランナーズハイのような至福感にいたります

ぐりぐらもSMも

【不快な刺激】×【安全・信頼の文脈】×【脳内麻薬の分泌】

という構造で苦痛や不快感を快感へ変換するという

ある種の脳のバグだといえそうですね

みなさんはくすぐったがりですかー?

 

あーはいはい(うんうんプロテインだね)

どうやら私はくすぐったがりのようです

 

ちょっと触れられただけでもヒャッとなるので、パートナーに「ねーねーそんなのでどうやって日常生活を送ってきたの?」と聞かれるけど、

いや、そんなに日常生活で触れられることなくないですか?

 

パーソナルスペースを守ってるので、他人とのソーシャルディスタンスを保って生きてるので

(たとえば散髪のときとかって言われて、たしかに子供のころ散髪が苦手だったなと)

 

でも最初からこんなにくすぐったかったかというと、たぶんそうじゃなくて、

そういえば最初にぐりぐら界隈のイベントに参加したときはとかは、

いまよりもくすぐったがりじゃなかったはずだよなと思いまして

 

緊張しているときのくすぐり

一番最初に界隈のイベントに参加したのはフェチフェスのときで

 

「あのKSさんが出てる!」と思って学生ながら参加した

 

フェチフェスのブースでは当たり前だけど、観客に見られながら体験するので、

「うわーこんなに知らない人に見られながらくすぐられるのか、恥ずかしい」と思い、オプションの目隠しを選択した気がする

 

じゃあ目隠しされてくすぐられると、安心するかというと、、、

いやどうなんでしょう、

 

周りの視線は感じられなくなるから気持ちが自由になる反面、

周りの目線はどうなってるかなという無駄な心配というか不安も膨らんでしまうわけで

(まあ別に誰も気にしてないですけど)

 

そのときはくすぐったいなと思いつつも、まあこれくらいなら耐えられるかなって感想だった

 

安心しているときのくすぐり

ところが、そのあと別のイベントでくすぐられたときに、

あれ、なんこれ、こんなに弱かったっけというくらい声が出てしまい恥ずかしいことになってしまい

 

これはおそらく、くすぐったいと感じる要因の一つの、相手との関係性みたいなものが原因なのかなと

 

相手との関係性がなければくすぐられてもただ恐怖となり、関係性があればくすぐったくなるという

 

 

これは界隈では結構有名な説明でテレビとかでも紹介されてる説で

 

イベントの最初にぐられても反応が弱いのは、相手が良く知らない人だったり緊張してたりすることから来る恐怖心が勝ってるからで、

 

仲良くなってお酒も飲んだりして緊張感がなくなってきた後半のほうがより反応してしまうのはおそらくそれが原因

 

(お酒は血行を良くするからという説もあるけど)

 

イベントでくすぐられて反応ができないのも、緊張感とか見られてるという気持ちが邪魔してリラックスできてないのかと

 

この緊張してると効かなくて安心すると効くという構造は、なぜ人は笑うのかを説明するときの「無害な逸脱」理論でも説明できちゃうのではないかと思うわけです

 

無害な逸脱理論とは

笑いについて研究している変態のマグロウによると、人が笑うのは、無害で逸脱しているときだそうです

 

たとえば、偉い人がバナナの皮を踏んですってんころりんしたとしたら、おもしろくて笑うわけですけど、

 

 

これは転けたけど怪我してないという無害感と、偉い人が転ぶという逸脱性が原因で面白くなっていて、

 

こんな感じで人が面白いと感じるものはすべて「無害」かつ「逸脱」しているもので説明できちゃうという理論

 

無害とは

例えば、バナナで転んでも大怪我してしまってたら無害じゃなくなってしまって笑えなくなるし

 

 

自虐ネタみたいなのも本人が笑っていいよという雰囲気で話してるから無害で笑えるわけで、

 

これがお涙頂戴みたいになっちゃうと、無害じゃなくなって笑えないわけでみたいなそんな感じ

 

かのアリストテレス先生は、笑いの本質は他人に対する優越感の快感から生まれると言ったわけですけど、

それだとこういうあまりにも不遇な出来事だと笑えない理由が説明できないから、無害なことは重要なんです

 

 

カント先生は「笑いとは、緊張した予期がまったくの無へと突然転化することから生じる情緒」と考えて、

 

予想を裏切るものが無害じゃなければ、驚きや恐怖に、無害なら面白さになると考えていて、ここでもやっぱり無害なことは笑いの必須要素として挙げられてます

 

また、フロイトは例のごとく、性的なことやからかったり皮肉を言ったりすることは、普段理性で抑えられているもので、

 

その抑圧から解放されたときに、たまっていたエネルギーが放出されて笑いになると考えます

 

確かに、なんか我慢している思いが溢れ出て笑いになるイメージがありますが、

 

これも行き過ぎると犯罪とか差別になるので、笑えない領域になるでしょう

 

逸脱とは

ショーペンハウアーは概念と現実とのズレが笑いと考えました

 

たとえば、いっつも部屋の隅でこけちゃう犬がいたとして、最初は笑ってるかもしれないけど、

 

日常的にあることになるといつか笑わなくなって、

 

来客が来たときに「なにこれ、良く笑わずにいられるね笑」って言われるやつみたいな

 

 

箸が転んでも可笑しいて言うのも、

 

「なんで面白いの?」って聞くと、「だって、箸が転げたもん、普通そうならんやん」と返されるわけで

 

おなじく偉い人がこけるのも、普通の人がこけるよりも、逸脱してるから面白いみたいな

 

忘年会で部長が変なことしてるときの面白さですかね

 

この「普通そうはならない(から面白い)」というのが、「逸脱してる(から面白い)」というロジックの一部分になってる

 

 

箸が転げるのも、犬が隅でこけるのも、偉い人がこけるのも、そんなの当たり前の世界観で生きてる人は何も面白くなくて、なにこれ変なのーと思う人には面白くなる

 

こんな感じで、人間の笑いには必ず無害と逸脱の2点がなければならないのです

 

ぐりぐらの無害な逸脱とは

ぐりぐらにおいても、無害であることと逸脱していることがどのような重要性があるかみてみようと思います

 

ぐりぐらの無害とは

最初にプレイしたときには反応が薄くて、安心してから反応するようになるのは、信頼関係によって対象が無害化されるから

 

出会って最初のまったく見ず知らずの人にくすぐられても、怖い、痛いとか反応もよくなくなりがち

 

(無害の反対は有害ではなくて、無害じゃないなので、相手がいい人だったとしても、初対面は無害か無害じゃないか確定していないシュレーディンガーの人)

 

 

だから初対面の人からくすぐられるよりも、仲いい人のほうが断然効くというのが説明できそうですよねって

 

逆に無害かどうかわかってない人だと、どっちかというと恐怖や緊張が勝ってしまってうまく反応できないという

 

挨拶もなしにプレイをするっていうのは、そういう意味でも良くないですよ皆さん!

 

ぐりぐらにおいて、いかに無害になる/するのかがすごく重要なのです!

 

ぐりぐらの逸脱とは

ぐりぐらにおける逸脱というか、そもそもくすぐり自体が相手の身体スペースを侵害(逸脱)する行為で、

逆に自分で自分をくすぐっても笑わないのは、それが「侵害」でないからだといえます

 

(くすぐられている人の手を持つとくすぐったくなくなるらしい、知らんけど)

 

また、くすぐったがりかは本人が逸脱していると思っているか(パーソナルスペース)で決まるんじゃないかなって

 

くすぐるときに触れられるところが、普段は触れられない場所で、そこを触れられている!(逸脱している!)と思っていることが重要なんじゃないでしょうか

 

 

逸脱してない程度の人と人の触れ合いといえば、握手とか、ハグとか、散髪のときとか(?)・・・

 

これらは普段逸脱してないとみなしているから、なんとも思わないけど

いまくすぐってますよ、逸脱してますよー

という意味を持った瞬間からくすぐったくなるみたいな

 

ついつい「イヤ」って声に出ちゃうのも、逸脱として捉えている反応なんじゃないかと思うのです

 

「それ、有害だからやめてね💢」っていう意味の嫌じゃなくて、「だめだよーそんなの逸脱してるよー」っていう嫌っていニュアンス

 

 

ここの違いが難しいせいで、ほんとの嫌とそうじゃない嫌がわからずにいろいろな事案になってる気がする

 

不意打ちのほうが効いたりするのも、いまからやりますねって言われてるよりは逸脱感があるからなんだと思います

 

まとめ:無害な逸脱は重要

くすぐりにおいても、「無害」であることと「逸脱」していることは、重要でこの2つが揃っていないときは、良い反応が得られなそうです

 

よくある「こちょこちょ」って声に出したりしてるのも、明示的に怖くないよという無害性とくすぐってますよという逸脱性をもたせることができていいんじゃないでしょうか

人はみな、本質的にぐらである

……

と思っています

 

みんな等しく「ぐら欲」があるのに、その気持ちを隠して生きているのではないかと

 

「ぐら欲」は、死の欲動

ぐら欲とは何なのか

 

しかも「ただ単にくすぐられるだけではなく、自ら拘束までされたりしてくすぐられてる」のは死への疑似体験を求めているからというお話を聞いたときに、

たしかに、そうかもしれないと思いました

 

「ぐら欲」の本質は、フロイトが言ってた「デストルドー(死の欲動)」なのかもしれない

デストルドーのことを文字通り「死の欲動」と言ってしまうと、あたかも自殺願望みたいに聞こえてしまうけど、

たぶんフロイトが本当に言いたかったのはもうちょっとマイルドな概念で、

「生の欲動(リビドー)」と反対にある、破壊衝動とか攻撃衝動のことをひっくるめて表現したかっただけかと思う

 

(※ちなみに生の欲動が向かう「生」そのもののことを「エロス」、死の欲動が向かう「死」そのもののことを「タナトス」と呼びます。エロスのほうがえっちだけどタナトスのほうがよっぽど変態)

いわゆる、大変な仕事が多くて疲れたときに友達に対して愚痴って言う軽~い感じの「あーだるー、死にたー」みたいなニュアンスの、

「このまま全部すっ飛ばしてしれっと消えてやったら痛快だろうなー」とか、

「ここまで頑張ってやってきたのに、逆にここで台無しにしたらゾクゾクするなー」みたいな

 

誰しも一度は抱いたことがあるであろう破壊衝動が人間にはあり、

そのことを「生の欲動」との対比で「死の欲動」と便宜上呼んだだけなのかなと

 

そんなデストルドー反応が他人に向けられると、殺したいわけではないけどちょっといじわるしてダメージを与えたいという、誹謗や暴力になる一方で、

 

自分自身に向けられると、真の意味で死にたいわけではないけど、社会的に死んだり一時的に死んだりと「疑似的に死ぬことで脳汁を出して満たされるための行為」としての自傷行為とか逃避行動が見受けられるのかと思う

そして「ぐら欲」って、まさしく疑似的に死んで満たされる行為の一種として存在しているような気がする

 

エロスとはタブーを破ること

ぐら欲=死の欲動の構造を順を追って理解するために、まずSMの範囲、エロの概念について確認したいと思います

 

『エロティシズム』という名前の本も書いてるくらいエロについて研究しているバタイユによると、エロとは「社会を保つために人間が作ったルール」を破ることらしいです

 

例えば、服を着ること、暴力を振るわない、性行為とか排泄物といった下ネタを隠すことなどなどの社会が決めた禁止ルールを破る欲望がエロになるらしい

(バタイユはだいぶ変態ぽいので「禁止されていることは破られるためにある」とか「人は美を汚すために美を望んでいる」とかかなり過激なことを言ってるよ)


ちなみにバタイユのエロティシズムには、ある種の暴力も含まれるのでフロイト的なリビドーとデストルドーどちらも含まれた意味で使っているような気がします

 

死の欲動は、「連続性」へのノスタルジー

バタイユいわく、人間は一人一人が独立した体と心を持っている、一つ一つが孤立した存在(非連続な存在)で、
反対に、自然界は区切りがない連続性のある存在(どこからどこまでの水が一つのまとまりの海かもわからないし、どこからどこまでの風が一つのまとまりの空かもわからないみたいなことかと)

そして、そんな孤立した非連続的な人間は、
死ぬことで「千の風になって」ようやく連続性のもとへ還ることができる

こんな感じで、個々に孤立している人間は非連続な現状についての孤独を覚えつつ、
いずれ迎える死(連続性=自然)への畏怖と好奇心的な憧れを持っているらしく、

これってフロイトの「死の欲動」と似てると思いませんか

 

『エロティシズム』の中でもランボーという詩人の、以下の詩が引用されていたり
「詩は、人を、エロティシズムのそれぞれの形態と同じ地点へ、つまり個々明瞭に分離している事物の区別がなくなる所へ、事物たちが融合する所へ、導く。詩は私たちを永遠へ導く。死へ導く。死を介して連続性へ導く。詩は永遠なのだ。それは太陽といっしょになった海なのである」

太陽とか海とかそういった概念すらも無いような、主客が分離される前の世界と同じ、禅みたいなイメージなのかなと

なんか人類補完計画みたいですね

うーん、なんかよくわからないし難しそうと思いつつ、、、
でも、このランボーの詩の感じって椎名林檎の「浴室」と似てるなと思いまして

 

林檎さんも「生死とかを超越した融合を実現したい」という思いで書いた歌らしく、

「呼吸器官は冒される♪」とか「無重力に委される♪」とかって、

めちゃくちゃぐられてるときの、前も後ろも分からなくなってるときの感覚に似てませんか?

(つまり連続性へと繋がってる状態ってコト!?)

あと、「御留守になっていた守備部隊♪」ってのも、ちょっとぐりぐらすぎないですか林檎ねえさん

 

くすぐったい場所は命に係わる場所

「ぐら欲=死の欲動」説の根拠としても、くすぐったい場所といえば、わきの下や足の裏など

皮膚が薄く動脈が近い場所なので、ケガをすると出血しやすく命に係わるような場所で

くすぐられて笑うのは、これらの危険個所への刺激に対して脳を安心させるための反応らしい

知らんけど

あと、くすぐったい場所に毛が多いのも、そもそもは危険から身を守るためらしい

知らんけど

 

そう考えると、くすぐられることは命の危険を冒していることと同じで、

「くすぐられたい」という気持ちは、命の危険を冒したいという願望と同じといえそうですよね

 

たしかにぐら欲は「死の欲動」といっても問題ない気がしてきませんか

 

それはそうと、命の危険を冒す遊びって、だいぶバグってるよなと思いつつも

でも意外と遊びの本質だったりするわけで

 

「ぐら欲」は、めまいの遊び

遊びについて研究していたロジェ・カイヨワてんてーによると、遊びは大きく、

 ①ルールの下で競争して遊ぶ「アゴン」

 ②偶然性で遊ぶ「アレア」

 ③まねっこで遊ぶ「ミミクリ」

そして、

 ④絶叫やめまいで遊ぶ「イリンクス」

の4つに分けられるらしい

 

この分類の中でも「くすぐり(特にぐら目線)」は、絶叫(イリンクス)の遊びに分類できると思う

ルールもないし、プレイヤー側の意志も関係なく、ただただ驚きめまいが連続する遊びのジャンル
(※ぐりの気持ちはわからないけど、ぐり目線ではアゴン的に、どうやってぐらを堕とすかの遊びととらえているような気がする。どうなんですかぐりの人)

 

そもそも、イリンクスの遊びに分類されるような、

ブランコ、シーソー、ジェットコースター、スキー、サーカスなどなどは

程度の差はあっても、命の危険を冒して、それを回避する楽しさで、

ほかの遊びとは違って死の疑似体験を楽しんでいるジャンルな気がする

 

遊びの原体験はイリンクス

そもそも、赤ちゃんのときの最初の遊びの「たかいたかい」とか「いないいないばあ」もある種のイリンクスと思えてくる

高い所へ行って落下する危険性を感じても、安全な場所へと落ち着いて安心する

親がいなくなって不安を感じても、再び親が現れて安心する

こんな感じの緊張と緩和で「笑い」が生まれる

 

そして、こんな基本的な遊びの一つとしてもちろん「くすぐり」があって、

命に危険のある所に刺激を与えられ緊張と笑いが生じるという、同じイリンクスの構造で成り立っている

 

だから、「くすぐり」は「たかいたかい」や「いないいないばあ」と同じような最初の遊びの一つで、

危険を冒してギリギリ回避する、緊張と緩和のスリル感の遊びなんじゃないかなーと

 

それでも「ぐら欲」は、なぜあるのか

ところで、子供の頃の「たかいたかい」とか「いないいないばあ」とか「くすぐり」と、

ぐら欲が絶対的に違うのは、

それが本人の意思と関係なく与えられるのか、本人が求めているのかかと思う

 

普通に考えれば安全な状態が一番なので、死のスリルを求める必要はないはずで

 

「いないいないばあ」なんかが典型的だけど、

一般的に赤ちゃんは親がいなくなると不安になるので、自分から望んで「いないいないばあ」を求めていることはなく、

ちょっと大人の意地悪も含めて半ば強制的な遊びになっている気がする

 

「たかいたかい」はちょっと大きくなってからも、おねだりしてる子もいる気がするけど、、、

自分から望む段階になると、位置的危機感遊びとしてジェットコースター欲とか、山登り・パルクール・BMX欲とかに変換されていくのかと思う

 

山登りなんかは、まさしく死をギリギリで回避することの究極の遊びで、

デストルドーに取りつかれてしまった人が、残念なことに多く亡くなってしまっていたり。。。

そして「直接的な身体的危機感遊び(くすぐり)」の欲望として、最初の体験のまま残ってしまっているのがぐりぐら界隈なんじゃないかなと

 

(ちなみに「いないいないばあ」欲は、不安系危機感遊びみたいなことだからホラー・お化け屋敷とかギャンブルとかになるのかな)

 

酒飲みもサウナーも、みんなぐら

直接的に身体に危機感を感じる遊びという意味では、重量挙げみたいな追い込む系の個人スポーツとか格闘技とかもそうだし、

もちろん、ぐりぐら以外の痛そうなSMがそういうタイプの遊びになるといえそう

 

あとは麻薬とか覚せい剤もそういう欲望の表れなのかも

もちろんリストカットとかも

 

それ以外で最近は、極度の飲酒も一種の自傷行為だよなと思っていたり

肝臓を切りつけて脳汁を出しているだけなのではと思い、そういう意味では酒飲みはみんな本質的にぐらなんだと言いたい

 

あと、いわゆるインディアン(いまはネイティブアメリカンって呼ばないとダメらしいよ)の風習で、

テントサウナに入って死にそうな体験をする「スウェットロッジ」という風習があったりします

 

子宮のイメージとしてのサウナに入って、熱さに耐えて耐えて外気に触れたときに新しい自分として再び「生まれる」

やっぱり疑似的に死にかけて復活するタイプの体験らしいです

だからなんかサウナーも結局はぐらですよね

 

結論

ぐりぐらは、遊びの4分類の中で絶叫やめまい系の「イリンクス」に分類されて、

 

イリンクスの遊びの根本には、

自然(連続性)への回帰や破壊衝動(攻撃的なタブー)に代表されるような

デストルドー(死の欲動)が含まれているように思われる

 

ぐりぐらは、イリンクスの遊びの中でも身体的な危機感を感じて緩和される遊びの楽しさがある