高知海軍第三飛行場・前編~龍馬関係者宅が本部に~ | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[脱藩須崎説根拠者関係者と佐々木高行の妹]

以前、高知市の才谷屋分家「吹井才谷屋」の坂本家が戦時中、陸軍第43連隊長宿舎となっていたということを述べたが、かつて少し触れたように、高知海軍航空基地(高知龍馬空港の前身)の第三飛行場(宮内飛行場)基地本部も坂本龍馬と間接的に関係のある人物宅に置かれていた。それが、龍馬が脱藩時、須崎にいたということを後世に伝えた安田たまきに明治期、「梯子灸」の施術を行っていた谷民衛の叔父・谷孝成の後妻、才(さい)の実家・市川家である。

 

因みに孝成の死別した前妻は龍馬や海援隊と深く関わった藩の大監察・佐々木高行の妹だった。高行は長崎出張時の慶応3年、イギリスの水夫殺人事件の嫌疑が海援隊にかけられた際、この処理を担当した他、同年9月、龍馬が帰国して藩に新式銃一千丁を売却した際も協力している。余談だが、高知市佐々木町の町名は、高行の屋敷跡があったことから名付けられたもの。残念ながら屋敷跡は’00年代に入り、宅地開発で消滅してしまった。

 

民衛が親戚となった市川家を訪ねたこともあったが、逆に市川家の子が高知市内の学校に入学すると、民衛の家に下宿していたという。

孝成・才夫妻には子供がおらず、養子も取らなかったため、二人の墓は並んで市川家墓所にある。孝成は明治27年、58歳で没しており、才はその7年後に亡くなっている。

 

市川家墓所は元々近くの墓地山にあったが、墓参が不便ということもあり、平成20年代に入り、家の南方に移された(下の地図)。そこは高知海軍第三飛行場の航空機格納庫跡の一つである。恐らく、背後に擁壁ができるまではそこに格納壕(素掘り掩体壕)があり、その前に偽装の小屋が建てられてあったことだろう。

 

市川家はその地、宮内に昭和20710日開隊した高知海軍第三飛行場基地の本部になったのである。豪家であった市川家の屋敷は強制接収され、家の者は隣の部落(四国では「地区」の意味)に移らざるを得なかった。

家の石垣は二ヶ所の石が外され、銃眼となり、その背後の地面を掘って壕と成し、入るようになっていた。

背後の山際には防空壕が掘られ、その山には手榴弾を投げつける広場が造成された。

 

滑走路の建設は昭和20年春から始められ、呉海軍第5113設営隊が担当し、宮内周辺集落の者が勤労奉仕に駆り出された。田畑が接収され、延長1180m、幅150mの砂利敷きの滑走路が造られた。砂利の上には丸木をシュロで編んで簾のようにし、木走路とした。

基地には特攻隊員や整備要員等、150~200人を擁し、通称「丸岡隊」と呼ばれた。戦後、記された市川氏の手記には、四軒の民家が接収された旨、記述されているが、これは誤りでその倍以上の民家が接収されている(当方による聞き取り調査)。その一部は民家背後に防空壕が掘られた。

 

この基地に、特攻に使用される偵察練習機・白菊が27機配備され、山の斜面を削った素掘り掩体が三つの谷を中心に39基造られている。

この基地では第一飛行場(龍馬空港の箇所)同様、練習機の墜落事故も起こっている。84日、旋回飛行中、エンジンの不具合が起き、同時に谷風に煽られ、山腹の牛小屋上に墜落したのである(添付写真は高知県老人クラブ連合会発行「平和への祈り」より)。しかし幸いにも搭乗していた二人は、骨折等はしたものの、命に別状はなかった。

 

現在、滑走路跡は田畑に復し、その面影はない。滑走路跡のすぐ前にある市川家(上の地図)については、石垣は当時のままだが、当然銃眼箇所は元通りに塞がれ、入口の壕も埋められている。石垣の二ヶ所の石の積み方がやや歪になっているため、そこが銃眼跡だろう。

屋敷背後の防空壕も擁壁ができてなくなった。

 

家屋は母屋等、戦後建て直されたが、北側の建物は当時からのもので、便所棟も残っている。便所の壁板には隊員が「丸岡」と落書きしていたが、これも張り替えられている。

が、母屋南の納屋の中には、隊員が使用していた風呂場が残っている。風呂場と言っても木枠だけで、恐らくこの中に五右衛門風呂桶を入れていたものと思われる。戦後は扉を付け、縦に置き、棚として使用していた(下の写真)。

 

母屋の北側の倉庫の中には、白菊の部品と言われるものがあるが、戦後、市川家ではこれを鍋として利用していたそうである。何かの機器のカバーかも知れない。

部品と言えば、拙著でも紹介したこの基地の白菊機のタイヤが平和資料館・草の家に保管されている。これは地元宮内の方が四万十町役場隣にあった引揚事務所から貰い受けたもの。

次回の後編では三つの谷に残る素掘り掩体壕や燃料タンク置き場跡等を紹介する。

 

PS:来月18日、三たび(‘12年以降)、高知市立春野公民館分館で講演を行うことが決まった。演題は「滅びゆく長宗我部盛親と龍馬との因縁的関係」。関ヶ原の戦いから処刑されるまでの盛親の生涯や「大坂城五人衆」の毛利勝永や明石全登の土佐での足跡、盛親を京都の八幡市で捕縛した蜂須賀家家臣の幕末時の子孫の家臣宅に龍馬が滞在していたこと等を解説する。

 

この講演は地区(大字に於ける)最大のイベントである文化祭で開催され、毎年、県内の著名人が招聘される。講演終了後は会場が居酒屋と化す。文化祭の広報は回覧板等によるが、毎年満席になるので、ここで紹介しても地区外の者は席に座れない可能性が高いので、詳細は割愛する。

しかし今年は書籍出版や写真展を開催していないにも拘らず、初夏から約二ヶ月おきに県内外から講演に呼ばれ、それらとは別件で新聞取材も複数回あった。何故?

 

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