お龍、土佐和食(わじき)へ(10) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[武市瑞山の師の役所と河田小龍の師匠の絵師]

札場の辻から再び土佐東街道を東進、左手に7軒目の十字路北西角に建つJA土佐香美赤岡支所は、以前解説した武市瑞山の学問の師・徳永千規が勤務していた香我美郡奉行所が、高見から移転した地である。しかし移転したのが慶応212月と、藩政時代末期だったこともあり、明治元年3月にはもう廃止され、短命に終わった。



JA赤岡支所の北隣が(2)で解説した大庄屋跡で、その北が二種類(印刷物と手書き)のウォーキングマップ等を置いてある絵師「絵金」の資料館「絵金蔵」(えきんぐら)。当然、館内見学をせず、マップや観光パンフを貰うだけでもOK。しかし絵金は幕末の反骨の絵師で奉行所跡 あり、グッズ等も販売しているので、歴史ファンなら見学すべきだろう。



絵金については、各神社の祭りや地元(絵金ゆかりの赤岡や高知市)のイベントで毎年夜間、ロウソクの灯りに照らされた、おどろおどろしい絵金の描いた各種芝居絵の屏風が展示される様子がニュースで取り上げられているため、高知県民なら知らない者はいない。



しかし美術界で絵金の評価が高まったのは、昭和40年代以降のこと。それは絵金本人が知らずに関与することになってしまった似せ絵事件が大きく影響しているが、絵金の弟子(間接的孫弟子等を含む)が多かったため、後世に於いて、弟子と本人の絵の見分けがつきにくかったことも関係している。河田小龍も弟子の一人であり、高知市の朝倉神社の夏祭り等では、絵金と共に小龍の屏風絵も展示される。



絵師・金蔵、通称「絵金」こと弘瀬洞意は文化9(1812)、高知城下・新市町の髪結いの家・木下家に生を受け、金蔵と名付けられた。木下家の仕事場絵金のクリヤファイル に役者の似顔絵や武者絵等が貼られていた影響から、金蔵は幼少期から画才に秀で、城下の御用絵師・池添美雅(号:楊斎)に師事して狩野派の画風を学んだ。



文政12(1829)18歳の時、楊斎の推薦により、藩主の息女・徳姫の出府に御六尺(駕籠かき)の名目で随行した。

江戸でも土佐藩邸の御用絵師に入門した他、狩野派の著名な複数の絵師にも学び、3年という短期間で一字拝領(免許皆伝)を受け、「洞意」の号を与えられた。



天保3(1832)、土佐に帰ると藩医・林家の株(資格)を購入し、武家に準ずる格式をもって家老・桐間家(現在の高知県警本部東側から丸の内高校西側にかけての地)の御用絵師となる。

そんな順風満帆に思えた生活の中、事件は起こる。ある日、城下の豪商が大枚を支払って狩野探幽の双幅を入手したということで、宴を開いていたのだが、招かれていた客の一人、篆刻家の壬生水石がその双幅を見るなり、金蔵の贋作であると見抜いたのである。



金蔵は藩の取り調べに於いて、自分が練画蔵跡と宮谷家跡の塀 習のため、模写したことは認めたが、それ以外のことは窺い知らぬと答えた。

その後の調査で、この双幅は画商・中村屋幸吉が懇意にしていた金蔵の画蔵から勝手に持ち去り、探幽の落款を偽造して押印し、高値で売りつけたことが判明した。



しかし真実が判明するまでの間、既にこの一件は城下に広まっており、金蔵は「似せ絵絵師」の烙印を押され、狩野派を破門、藩医株も没収、描いた絵は全て焼却され、こめかみに罪人の印である焼印を押され、城下から追放された。

それから十年以上の間、金蔵の消息は詳びらかではないが、上方に上り、芝居小屋の裏方をしたり、芝居の看板絵を描いて生計を立てていたという。在りし日の絵金画蔵内



その後、土佐に帰って各地を放浪する中、以前解説した和田安次郎の所で2年ほど厄介になった。そんな折、赤岡の須留田八幡宮の祭礼時、金毘羅歌舞伎の上方役者を招いての興行が行われた際、地元の旦那衆の一人で廻船業者の宮谷氏と接点があった。金蔵の伯母が宮谷家に嫁いでいたのである。

そこで絵金は宮谷家の西側にあった、小松与右衛門の家作である酒蔵を画蔵として、和田家に居た頃よりも本格的に芝居屏風や絵馬を手掛けるようになり、再び評判が広まっていった。



晩年、金蔵は町医者・弘瀬家の株を買って弘瀬洞意と名乗った。

明治になると高知市へ帰り、後身の指導にも当たった。

明治93月永眠。それから約100年の間、金蔵は全国的に評価されることなく、土佐の僻地で細々と語り継がれる存在に過ぎなかった。



JA赤岡支所から南下し、すぐの四差路を東に折れる。次の歩道が交差する十字路北西角に金蔵の画蔵(酒蔵)跡の解説板が建っている。跡地は畑になっている。ここで絵金は芝居絵屏風なら一日一枚、絵馬提灯なら一日百数十枚を描き上げたという。



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