龍馬は筆山と鷲尾山に登っていた | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[龍馬の継母実家子孫の伝承]

北代伊与実家跡 坂本乙女が高知市一の絶景・鷲尾山に頻繁に登っていたことが「維新土佐勤皇史」に記載されていたことは何度も述べたが、龍馬の継母・伊与の実家・北代家には、龍馬も鷲尾山と、その支尾根の突端にある筆山(ひつざん・118.3m)に登っていたことが口伝されていることが分かった。

 

伊与の父は御蔵番を務めていたことは、龍馬ファンなら皆知るところ。伊与が龍馬の父と結婚する際、最初の夫の家・川島家から嫁いでいるが、夫・川筆山展望台下 島貞次郎の死後も川島家に残っていたのは、息子である弥太郎を成人させるためだと言われている。

 

が、弥太郎は17歳で家を出て、貞次郎の兄・祐蔵の養子先・木岡家を継いだものの、その年に急逝している。この木岡家は、過去何度も触れた、龍馬が慶応39月、帰国した際、龍馬からギヤマンの鏡を貰った木岡一の家だったと思う(親戚の家だったかも知れないが資料が散逸し、記憶が定かではない)


伊与は元々武家の娘であるため、長刀も使いこなしていたが、坂本乙女は伊与から長刀を教わったとも言われている。

伊与には2歳年下と7歳年下の弟がいたが、下の弟・北代修助重隆には龍太郎(りょうたろう)という息子がいた。龍馬筆山展望台より は北代龍太郎をたいそう可愛がり、近隣の鏡川や筆山、鷲尾山へ連れて行って遊んだ。また、鏡川では、乙女が龍馬を鍛えたように、龍馬も龍太郎に水練を教え、鷲尾山へは乙女のように夜もたびたび行き、龍太郎に肝試しをさせたという。

 

鷲尾山山頂は中世の鷲尾山城跡であり、夜な夜な、武士や軍馬の霊が出ると言われており、また、筆山から尾根続きの皿ケ峰(163m)までは今も昔も墓地が多い筆山の城見峠 。龍馬は龍太郎に度胸の据わった男に育ってほしかったのだろう。

尚、鷲尾山だけでなく、筆山・皿ケ峰とも抜群の展望を誇る。鷲尾山登山コースの中で、筆山から皿ケ峰を経由して登るコースは、最も眺望の優れたコースである。道標も完備されている。


余談だが、龍太郎の姉・美加(長女)は山内家「五連枝」の一つ、追手(おおて)邸山内家に奉公に上がり、祐筆を皿ケ峰から見た筆山 務め、また、腰元たちに長刀を教えていたという。尚、五連枝とは、土佐藩11代藩主・山内豊興の弟らの豊道の東邸山内家、豊著の南邸山内家、豊栄の追手邸山内家に、豊興の叔父・豊敬の西邸山内家、12代藩主・豊資の子・豊矩の本町邸山内家を加えた五家を指す。

因みに山内容堂は南邸山内家の当主だったが、誕生地は追手邸で、跡地の天理教高知大教会南西角に誕生地碑が建立されている。
皿ケ峰山頂

 

龍太郎は明治に入り、幹美(みきとし)と改名し、財閥・三菱商会に入社して外航船の事務長を務めていたが、船積み中の金塊紛失事件の容疑をかけられ、憤慨し、退職して高知に帰った。その後は謡曲や和歌の師範として活動していたが、大正511月に建立された「坂本龍馬先生顕勲碑」の裏に連名して刻字されている。死去したのはその8年後である。


またまた余談だが、筆山墓地には歴代鷲尾山頂からの展望 藩主の墓の他、龍馬の父の実家・山本家の墓所もある。龍馬の祖父は山本覚右衛門信固。山本代七信道は龍馬の従兄弟で数奇な運命を辿った山本卓馬(沢辺琢磨)の父。代七信道の妻・佐尾子の姪は武市瑞山の妻・富子である。


 

尚、墓所には「山本・桑津家」とあるが、山本家の先祖は元々鈴木姓だった。織田信長に仕えていた鈴木三郎追手邸山内家跡 重家が始祖だが、その子・次郎右衛門が、信長に一日何度も呼び出されていた時期があり、次郎は食事する暇がなく、「食わずに参ろう」と言った。後にそのことが信長の耳に入り、「姓を『不食(くわず)』に改めよ」と言われ、改名することになり、「不食」から「桑津」にしたという。


 

三代・又左衛門重実の時、山本姓に改名し、山内家に召し抱えられ、土佐へ山本家墓所 と入る。が、幕末から明治にかけての当主で沢辺琢磨の弟・三治(土佐勤王党員)は明治に入ると姓を戻し、「桑津一兵衛」と改名している。

 

山本家墓所の場所は記録していないが、筆山東の「筆の鼻広場」から北東に下る墓地道を下って行った先にあったかも知れない。道沿いには看板が出ている。

その墓地道は塩谷崎町一丁目の福留パーキング東に下りていたと思うが、その途中、主要墓地道から南に入り、古びた 「吉田東洋先生墓」の石造道標の三叉吉田東洋墓 路から上がった所に東洋夫妻の墓がある。場所はかなり分かり辛いが、「民権婆さん」こと楠瀬喜多の墓所を上に見て、南に進んでいると前述の道標が現れる。但し、主要道から喜多の墓所へと折れる分岐も分かり辛いし、目印もなかったと思う。


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