奇跡の景観・淡路の天橋立と龍馬支援者の主 | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[花と台場と要塞の島&城代家老家臣団の悲劇]

兵庫県洲本市淡路島の由良港から定期船で僅か3分の東に、全長約3kmの細長い無人島・成ケ島がある。この島は、藩政時代前期までは淡路島と陸続きで潟湖を擁する砂州だったが、大規模な開削工事を行って離島となってからはその形状から、「淡路橋立」と呼ばれるようになった。

島の「細さ」は本家の天橋立を凌駕するほどで、島の展望所や淡路島の丘陵等から見ると、まるで糸のようにか細い。紀淡海峡の景色と相まって「奇跡の景観」と言っても過言ではないだろう。



島の北部の最高峰・成山(52m)には藩政時代初期、成山城が築城され、幕末には成山第一砲台観測所跡下より 島の中ほどの六本松と南部の高崎に台場が築造された。更に明治中期から後期にかけては、ロシア艦隊の脅威もあり、成山城跡周辺に陸軍由良要塞成山第一砲台と第二砲台、高崎に高崎砲台が築造され、一般人の上陸は禁止され、それは太平洋戦争終戦まで続いた。



戦後は成山第一砲台が壊され、国民宿舎が建てられ、麓の成山城兵屋敷跡周辺にキャンプ場が造成された。高崎には燈台も建設された。

島にはハマボウの群落を始め、約300種の海浜・海岸植物、約50種の広葉樹が自生し、アサリやサクラガイ等約500種の貝類が生息、更に初夏にはアカウミガメの産卵、アカテガニの誕生も見られる。そういうこともあり、国民宿舎が廃止後も定期船は一時間に一本の便がある。



龍馬に文久22月下旬、宿と活動資金を提供した山奉行兼藍商・鎌村熊太の主が徳島藩筆頭家老・稲田氏であることや、旧脇町の稲田氏関連史跡は拙著に掲載しているが、徳島藩時代の二代目稲田氏である稲田示植(しげたね)は、大坂冬の陣の戦功で、給地に淡路島を加増され、元和4(1619)、脇町の脇城から淡路へと移り、翌年、成山城城代・牛田宗樹が病

死した後、城代に任命された。しかし牛田派の由良奉行らとの折り合いが悪かったためか、藩に願い出て、元和
7年には脇城に成山城跡(成山第一砲台跡) 戻っている。
が、寛永8(1631)、示植は再び淡路への転出を命じられ、再度、成山城代となる。今度は替地で、大半の家来も引き連れての大移動である。これは藩に不満を抱く稲田氏と家臣を藩の本拠地から遠ざけ、且つ、商業が発展していた脇城城下町を藩の蔵地として藩の財政を向上させる狙いがあったのかも知れない。



プライドの高い稲田氏と家臣団だが、普通の家老なら、他の役職者との折り合いが悪いからと言って、任期途中で職責を放棄して地元に帰ること等は許されないだろう。しかし稲田氏にとっては、自分は家老であっても藩主・蜂須賀氏の家来ではない、という気位がある。


初代稲田植元(たねもと)は、尾張の岩倉城主・織田伊勢守信安に仕えた稲田貞祐の三男である。しかし天文18(1549)、貞祐は織田信長に内通したとの嫌疑をかけられ、切腹させられてしまう。脇城跡の井戸
貞祐の長男は自害、次男は討死し、植元と四男の吉勝は母に連れられ、宮田村に行き、貞祐が懇意にしていた信長の家来・蜂須賀小六正勝に預けられることになる。植元らは蜂須賀家で養育され、成人すると正勝と共に信長、秀吉、家康の下で武功を挙げて行った。



天正8(1580)、秀吉は播磨三木城を落城させた後、信長より播磨仕置を任され、武功のあった正勝に播州龍野、赤穂郡四万五千石を与えた。そして植元には河内国二万石を与えようとしたが、植元は秀吉に「河内にいては、兄弟の契りを結んだ小六殿がいざという時、間に合わぬ。拙者は小六殿の客分として龍野城中にいたい」と伝え、以来、稲田氏は蜂須賀氏の筆頭家老になった。

秀吉の四国征伐後の天正13(1585)、正勝の子・家政が阿波国を与えられた際にも、植元は但馬国出石の給地を辞退している。故に代々藩主の蜂須賀氏は代々の稲田氏を特別扱いしてきた。しかしそれが禍根となって、明治に入って悲劇が訪れる。脇城城下の水戸黄門



再度成山城代に就任した稲田氏だったが、その三年後、城を破却して、淡路島の中心部・洲本城に移り、城下町を整備する命が下る。そして明治維新まで、稲田氏は洲本を本拠とすることになるが、藩と稲田家との二重行政になる案件もあり、藩側の藩士と稲田家家臣との軋轢を生むことにもなった。



更に14代藩主に将軍の子・斉裕を迎え、佐幕派になった蜂須賀家に対し、稲田家11代敏植は京の公家・高辻中納言の娘を妻に迎え、勤王派となり、幕末には家臣らが岩倉具視や桂小五郎、西郷隆盛らと交流するようになる。そして戊辰戦争時、徳島本藩を差し置いて、朝廷から稲田家に対し、「稲田藩」宛ての勅命が下り、征東総督・有栖川宮熾仁親王の護衛役を務めることになる。稲田家は藩の許可を取ることなく、進軍してしまう。



明治2年の版籍奉還後、くすぶり続けていた藩と稲田家脇町の稲田家墓所入口 との対立が決定的になる。稲田家家臣は稲田氏と切り離され、藩の統率下になり、郷付銃卒身分となる達しが出された。これは庄屋の支配を受ける身分であり、稲田家家臣には耐えがたい屈辱である。そこで稲田氏と藩は何度も協議し、政府をも巻き込んだ。その結果、明治3年、藩は稲田家臣全員を士族とする英断を下した。しかし稲田家臣団は増長し、稲田氏を知事とする分藩独立まで要求し始めた。ここに至って遂に藩側の過激派が激昂、この問題解決のために朝廷の使者が徳島に来るまでの間に、洲本と猪尻(脇城下)の稲田家臣団を誅伐することになった。



そしてこの問題協議のため、蜂須賀知事と稲田氏が東京に向かっている最中の513日、過激派は二手に分かれ、猪尻と洲本へ進撃を開始した。猪尻襲撃隊については、途中で藩の軍監と弁事が追いつき、進撃を止めるよう説得したが、聞き入れられなかったので二人は割腹して、何とか進撃は収まった。

しかし洲本襲撃隊については手遅れで、稲田氏からの命で「争いはしない」と決めていた家臣らは無抵抗のまま、射殺さ襲撃予定だった猪尻会所跡 れ、婦女子も容赦なく殺害され、家屋敷は焼き払われた。因みに小説及びドラマの「お登勢」はこの「稲田騒動(庚午事変)」を題材にしたもの。



その後、政府から蜂須賀知事は謹慎を申し付けられ、襲撃の首謀者は切腹処分となった。

一方、稲田家臣団は北海道へ移住させられた。耕地のない原野と密林が広がる極寒の地で皆、絶望し、開拓途中で亡くなる者も多かった。この移住を題材にしたのが映画「北の零年」(出演: 吉永小百合、豊川悦司、渡辺謙他)である。

北海道移住第一陣が渡ってから約五ヶ月後の明治47月、廃藩置県が断行され、分藩自体の意味がなくなった。そして淡路島は兵庫県に編入された。稲田家臣団の流した血の意義は何だったのだろうか。



尚、成ケ島の由良要塞の各砲台や徳島藩の台場跡を巡るコース図とガイドは→花の「淡路の天橋立」は幕末と明治の要塞島


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