坂本龍馬の久万街道調査開始 | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

≪越知町と旧仁淀村が初代脱藩の道≫

坂本龍馬が久万高原町の旅籠・板屋へ行く際、通った久万街道は、越知町や旧仁淀村(現、仁淀川町)では、昔から龍馬の脱藩の道であると言われていたことが、各地域民や郷土史家からの聞き取りで分かった。


その根拠はやはり、司馬遼太郎と同様、那須信吾が吉田東洋を暗殺して脱藩後、身内に出した手紙の内容によるのではないかと思われる。つまり、信吾を始め、家老・深尾家領地の志士等何人かがその街道を通って脱藩しているから、龍馬も通ったに違いない、という思い込みである。


しかし、以前、ブログで述べたかどうか分か自然、戦跡、ときどき龍馬-板屋から見た国境尾根 らないが、信吾は久万街道から伊予へは入っていない。資料が散逸して手元にないから恐縮だが、昭和24年頃、旧東津野村の広報紙に、脱藩時の信吾を泊めた東津野村在住の人物について記されており、天井裏に隠した刀等のことが伝わっている。手紙に本当の脱藩ルートを記せば、その泊めて貰った人物に迷惑がかかるから、敢えて一般的なルートである久万街道ルートを綴ったのである。


但し、龍馬の脱藩の道ではないにしても、板屋へ行くには久万街道を通ることになる。つまり、確実に龍馬は久万街道を歩いている。街道の起点は越知町中心街の東端、松山街道との分岐点である。文徳からは横倉山南麓を通る森往還を行き、途中で横倉山の尾根へ上がり、三嶽越に合流する。三嶽越の終点、旧仁淀村森から仁淀川南岸を西進し、沢渡で仁淀川北岸に渡る。その間、番所もある。北岸から板屋までは、地形図にも破線がある程度記されていたと思う。


これまで中岡慎太郎の脱藩の道その他の街道や伝承地等、踏査すると言いながら、各種事情で行ってこなかったが、今度は別件で仁淀川町の郷土史家と会うことになっており、また、久万街道の高知県内域のルートは比較的距離が短い故、踏査を本格的に考えるようになった。

尚、写真は板屋から望む県境尾根。写真の中心部の若干上から左方向にかけての山腹を久万街道が走っている。


PS:安徳帝伊予切山潜幸説伝承地については概ね探訪しているため、「ももへの手紙&旅の贈りもの関連地回遊」シリーズが終了すると、投稿を開始する予定。複数の低山を含む二種の回遊ルートを独自に設定しているから、ハイカーも興味あると思う。

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