以前も説明したように、幕末から昭和初期までの砲台は海岸部や、海岸に近い丘陵に築かれていましたが、先の大戦時は航空機による攻撃を防ぐため、谷部や山の斜面に横穴を掘り、掩蔽(えんぺい)壕を築いた上で、大砲を格納していました。映画「硫黄島からの手紙」等をご覧になった方は想像できるでしょう。
① 陸軍豊予要塞重砲兵第18連隊・12センチ榴弾砲
大正15年、四国最西端の愛媛県伊方町佐田
岬に豊予要塞佐田岬地区第一砲台が竣工。しかし世界軍縮会議で昭和9年に廃止。が、昭和20年春、岬の灯台下と、’08年、私が兵士の霊にとり憑かれた(突然胸が苦しくなり、動けなくなった)御籠島のそれぞれに、二門ずつ、洞穴式陣地の榴弾砲を配備。
灯台下の陣地については、灯台から見下ろすことができるが、ここでも兵士が爆死しているため、霊感の強い方は撮影しない方が良い。
去年、県内のマスコミで大々的に報道された香南市の大峰山北西斜面にある砲台陣地跡。
が、この陣地、道がない上に急斜面に築かれている。
終戦時、GHQ(の指示)によって掩蔽壕が爆破され、壕の片側の壁が吹き飛ばされて西の谷に落下している。私はその壁の残骸と付近に落ちていた碍子(がいし)を発見したことにより、陣地に辿り着くことができた。
掩蔽壕の奥には素掘り壕が続き、内部で枝分かれしている。
③ 海軍紀伊防備隊・15センチ平射砲
淡路島は陸軍由良要塞の各砲台が有名だが、和歌山に司令部のある紀伊防備隊も太平洋戦争末期、淡路島の紀淡海峡側の山の斜面に、 いくつもの大砲陣地を構築していた。
こちらの掩蔽壕は上記二ヶ所のものより幅、高さ共、一回り以上が大きいが、内部の奥行きは10m以下。南には由良要塞時代の陸軍標柱が残置している。
洲本市由良町の由良小学校南方の左急カーブを過ぎ、緩い右カーブ(山際に素掘り壕跡あり)を越えた右手の墓地の上にある。
尚、写真に写っている人物は通りすがりの地場企業の社長。壕の大きさが分かるよう、立って貰った。
各陣地について詳しく解説してほしい、という方は次の二つのバナーをプリーズ・クリックON
人気ブログランキングへ