大正時代に加藤茶が活躍!? | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

昨日、坂本龍馬の姉の乙女が和田アキ子似であることを記述し、去年自然、戦跡、ときどき龍馬-安芸盛丸亀藩随一の勤王志士・土肥大作が有田哲平にそっくりであることを紹介しましたが、今回はその第三弾。

あの一世を風靡したお笑いのドリフターズの加藤茶の、若い頃にそっくりな高知の著名人。

 

明治29年、高知市江の口の貧しい士族の家に生まれた安芸盛(さかん)です。

盛は小学校を4年で中退後、帯屋町の姉の嫁ぎ先の活版工となりますが、大正4年に上阪。

 

そこで印刷工として働くうちに労働運動に目覚め、「ストライキマン」として名を馳せ、関西労働界の三羽烏とまで言われます。

 

が、大正デモクラシー後は武倒派に転向。争議の行き詰まりは殴りこみによって解決を図ろうとし、度々逮捕・投獄される ようになります。

 

大正末頃には高知随一の任侠・自然、戦跡、ときどき龍馬-安芸盛墓 鬼頭良之助(映画「鬼龍院花子の生涯」のモデルとなった侠客)とも交流し、高知県初の労働団体を結成。以後、高知県下での労働争議の殆どが盛の指導の下、行われました。

 

盛の労働運動に於ける弟子の中には、桂浜の坂本龍馬像の建立に奔走し、「龍馬読本」等の著者でも知られる入交好保(よしやす)もいました。

 

そんな盛も昭和19年、阪神航路の滋賀丸乗船中、室戸岬沖で米国潜水艦の魚雷攻撃を受け、48年の生涯を閉じました。

 

尚、二枚目写真の墓は高知市洞ケ島町にある薫的神社境内。

 

余談ですが、初期のドリフターズ(荒井注がいた頃)のメンバーそれぞれの芸名は、名付け親が、水に関係のある芸名が出世する、ということで名付けたのですが、高木ブーだけは「おまえは[ブー]でいいだろ」ということになったとか。

 

因みにいかりや長介の「いかり」は船=水に関係、荒井注の「注」は「注ぐ」、仲本工事の「工事」にも水がつきもの。加藤茶は説明不要。

 

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