[坂本龍馬の金毘羅宿と高杉晋作の潜伏先]
興泉寺南の旧呑象楼跡地から、龍馬や晋作、桂小五郎等も宿泊した、金毘羅屈指の大宿「芳橘楼」は、西に数百メートルの距離。
晋作や小五郎宿泊のことは香川県外の歴史研究家にも知られているほど有名ですが、龍馬の伝承も以前記述したように、琴平町史に記述されている位ですから、信憑性はかなり高いと言えるでしょう。
旧呑象楼跡地から西の新町商店街を進む道は、金毘羅と高松城下を結ぶ「金毘羅参詣道・高松道」でもあり、道沿いの街灯にも通称の「高松街道」という表記で記されています。
商店街を抜けたところの一之橋の箇所には、昔、明治期に上流に移築された屋根付の鞘橋が架けられており、ここが金毘羅表参道の入口になります。
橋の西袂北の橋本旅館は与謝野蕪村も宿泊した由緒ある旅籠「臨川亭(りんせんてい)」跡ですが、何度も建て替えられているため、面影はありません。
それでも蕪村が描いた、詩を添えた自画像が伝えられており、拝見させて戴きました。それで1泊2食付6,500円はお得。勿論駐車場代も無料。
次の交差点を渡ってから右手に数軒目の「ナカノヤ駐車場」が、龍馬や長州その他諸藩の志士が滞在し、慶応元年閏五月、晋作を逃そうと「擬装の宴」を開き、日柳燕石と美馬君田が捕縛された旅籠「芳橘楼跡」です。
元は別の名称だったのですが、文化十二年、頼山陽が投宿した折、新たに命名したのです。
芳橘楼は明治期と昭和期に建て替えられた後、「敷島館」(一枚目画像)と改称されましたが、'90年代に廃業しています。
そこから左手に十軒ほど過ぎた所のT字路を南に折れ、次の道路も横断し、緩いカーブを描く箇所の左手に二軒並ぶO氏宅が晋作の潜伏先の一つで、燕石の配下の者の屋敷跡です。この者は遊郭の運営を任されていたと言います。
その先の三叉路を右折したところの北側の家、壁面に「松里庵」(しょうりあん)という看板が掲げられていますが(二枚目画像)、ここも燕石配下の一人、半助が料理屋を営んでいた箇所で、晋作の潜伏先の一つと言われています。
こちらも昭和期に廃業していますが、今でも畳の下に隠し部屋が残っていると言われています。残念ながら取材の許可は下りませんでした。
三叉路に戻り、北東に進むとすぐの十字路を右折、右手に二軒過ぎた所の広場が、龍馬に支援者・鎌村熊太を紹介した美馬君田の家塾跡(三枚目画像)です。
君田については以前解説したかどうか忘れましたが、元は阿波・郡里村・願生寺の住職で、還俗して琴平に移ってからは常に燕石と共に勤王活動を行っていました。
君田は持病を抱えていたため、燕石らが従軍して行った戊辰戦争には参加せず、家塾で子弟の教育にあたり、明治五年に琴平小学校初代校長に就任しています。その二年後、病没。
晋作のことを、命をはって助けた者は他にもいました。その家には晋作の歌も伝えられているのですが、それは次回。
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