[戦争遺跡から広がる浦戸湾から太平洋の絶景]
今日、日刊スポーツ大阪本社の小西記者(二枚目と三枚目画像)を、坂本龍馬やお乙女(とめ)が登った高知市の烏帽子山と鷲尾山へと案内しました。
紙面では毎月、龍馬に関係する女性のことについて連載しているらしいのですが、次回はお乙女のことについて書く予定で、記者は現代龍馬学会会員ということもあり、関連史跡を高知県立坂本龍馬記念館に照会したところ、私の方に連絡があったのです。お乙女が拳銃を撃っていた峠を見たい、と。
その峠とは以前、ブログの「坂本乙女伝」の中で取上げた高知市の白土峠です。これは坂本家子孫に伝えられていたことで、現代龍馬学会理事でエッセイストの渡辺瑠海さんが、聞き取りを行っていました。
それとは別に前述のお乙女伝でも記述しましたが、夜毎、鷲尾山に登って拳銃を撃っていた、というのは、大正元年に発行された、瑞山(武市)会編著の「維新土佐勤王史」に記述されていることです。
白土峠は以前、画像を公開したように、車道化されているから、帰りに車で寄ることにして、龍馬やお乙女も登った一等三角点峰である高知市の烏帽子山(一枚目画像)から鷲尾山までを往復縦走することにしたのです。
車は烏帽子山山頂直下のテレビ高知のアナログテレビ塔前に置き、そこから3分も登れば、旧春野町最高峰の烏帽子山頂(358.7m)です。
尚、テレビ塔へは、県道37号の神田トンネル南口から東のおおなろ園へ向う車道を進みます。
山頂は石鎚山遥拝所であり、祠のような石土神社が建っていますが、龍馬やお乙女もこの社に参ったことでしょう。
横には一回り大きな一等三角点標石が埋まっています。
以前、展望は皆無でしたが、若干南側が開けています。
そこから尾根の縦走に入るのですが、周囲は樹林帯で且つ、風の通りもいいので、今日のような猛暑日でも暑さにまいることはありません。
途中右手に直径一メートル少々のすり鉢状の浅い穴があるのですが、これは恐らく陸軍の歩哨用蛸壺壕跡でしょう。
蛸壺壕とは、一人用の防衛陣地のことで、主に素掘りの竪穴が掘られていました。
付近には登山道を横断する塹壕も見られますが、土砂の堆積によって、深さは20cmほどになっています。
顕著な塹壕は烏帽子山の旧登山道脇にあるのですが、今回は車で山頂直下まで行っているので、そこは通りません。
この烏帽子山から鷲尾山を擁す山脈「南嶺(なんれい)」は、絶対防衛ラインだったので、各所に陸軍の遺構が残っているのです。
歩行時間の計測は行っていませんが、烏帽子山から30数分位で、太平洋側に180度の展望が広がる鷲尾山頂(306m)。
眼下には連なった小島が浮かぶ浦戸湾から坂本龍馬記念館まで遠望でき、その向こうには太平洋が広がっています。
龍馬もここに登り、海の彼方へと胸を膨らませていたのではないでしょうか。
記者は高知市にこんな展望のいい箇所があったのかと、感動ひとしおで、田中良助邸近くの八畳岩からの展望の比ではない、と心弾ませていました。
高知県内の龍馬関連史跡の中では、文句なく「一番の絶景」でしょう。
山頂の一角には、戦時中の防空監視哨の聴音壕があります。1m近く土砂に埋没していますが、中に入って敵機の音を聞き、県警の防空監視隊本部に連絡していた戦争遺跡です。昭和30年代まではトーチカもあったのですが、「焚き火等をするから危険」ということで撤去されてしまいました。
帰路、白土峠に車で寄って記者をわざわざ電車通りまで送ったのですが、この記者には騙されました。真夏の平日に何時間もかけて案内したこともあり、記者は学会や当方の紹介を紙面でするとのことでしたが、それは嘘で掲載紙すら送ってこない始末。
やはり、真実を度外視した下世話な記事が大半を占めるスポーツ紙は「マスコミ」とは呼べないですね。現代龍馬学会も穢れ兼ねません。
それは兎も角みなさん、高知市に来たなら、鷲尾山に寄らないと絶対「損」ですぞ。最後までお読み戴いた証に次の二つのバナーをプリーズ・クリックonMeですぞ。
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