『リフレ派とMMTは別物 見え隠れする財務省の目論見』(高橋洋一の霞ヶ関ウォッチ)
https://www.j-cast.com/2019/05/09357025.html?p=all
「MMT(現代貨幣理論)という言葉が、新聞やテレビでも取り上げられるようになっている。(略)
この考え方は、アメリカの主流経済学者からは批判されている。筆者も、文献を読んだが、さっぱりわからない。通常の経済理論は、誤解のないように数式モデルで構成されているが、MMTには雰囲気の記述ばかりで、まったく数式モデルがないからだ。(略)
日本では、リフレ派の主張は、しばしばMMTの主張と混同される。筆者からみると、MMTで数式モデルがないのでどうして結論が出てくるのかわからない。(略)
リフレ派の議論は、アメリカ主流経済学者も賛同するし、定量的な議論の上に、財政再建は終わっているとか、財務省にとって目障りだ。
財務省からみれば、MMTを潰せば、リフレ派も自動的に抹殺できると思っているフシがある。(略)」
リフレ派の連中はMMTのお仲間に分類されるのがお嫌いなようだ。
「数式がない!」、「アメリカの主流経済学者も批判している!」とまくしたてるが、数式ばかり並べたリフレ理論が、“実行後6年以上経過→インフレ目標未達のまま”という体たらくでは何の説得力もないし、自らの知見や理論で反論できず、“アメリカ”、“有名学者”という権威に縋らざるを得ないのは、情けないことこの上ない。
また、高橋氏は、財務省がMMT批判に乗じてリフレ派潰しを画策しているかのような幻覚に怯えているようだが、そもそも財務省は、既発債と日銀当座預金の両替でしかない、つまり、新発債増発につながらない量的金融緩和政策をそれほど警戒しておらず、敵視もしていない。
国債の所有者が民間金融機関から日銀に変わるだけのことゆえ、緊縮政策に直接害を及ぼすものではないから、財務省として“ほとんど相手にしていない(=眼中にない)”、という方が正確だろう。(リフレ派を抹殺云々以前に、リフレ理論はもう死んでいる)
高橋氏は、何の経済成果もあげられず嘲笑され、過去の遺物と化したリフレ理論に代わって、積極財政策が時代の脚光を浴び始めたのが妬ましくて仕方ないだけだろう。
リフレ派がMMTを妬み嫌う一方で、MMT論者、特に、貨幣負債論や租税貨幣論に固執する連中もまた、リフレ派を嫌っている。
『上念司のMMT批判』
https://ameblo.jp/minusa-yorikazu/entry-12461080884.html
「「MMTは事実を語っているだけの故に、様々なウソや詭弁を明らかにします。単刀直入に言います!MMTを批判するとリフレ派になっちゃうゾ!」(略)
新自由主義者で構造改革礼賛で緊縮財政とグローバル化を推進し、金融緩和のみで経済成長が可能とする典型的ネオリベ野郎のリフレ派が、予想通りMMT(現代貨幣理論)にイチャモンを付け始めました。(略)
リフレ派は反緊縮を装っても、MMTの対極に位置する経済思想です。事実だけを語るMMTと異なり日銀当座預金の残高が増えると景気が良くなるという『又貸し』理論を掲げるリフレ政策でデフレ脱却に失敗したのは当然です。(略)」
と、こちらもリフレ批判のボルテージ全開だ。
リフレ派と貨幣負債論者(MMT支持者と同一とは限らない点に注意)…。
片や、実質金利低下予想を操作して貸出増や負債拡大による経済拡大を訴え、片や、国債と貨幣の本質を誤解したまま両者を混同し、経済成長は負債拡大によってのみ達成されると強弁する。
負債拡大を経済成長の梃だと考える点で両者は見事に一致しており、互いにいがみ合う理由が理解できない。
両者の中傷合戦なんて、所詮は貨幣の本質を曲解した者同士による、“金融緩和か、財政政策か”という同族嫌悪やコップの中の諍いでしかなかろう。(負債好き者同士、もっと仲良くすればよいのに…)
リフレ派は積極財政を嫌悪し、地方経済や公共インフラの崩壊を放置する。
貨幣負債論者(繰り返すが、MMT論者と必ずしも同一ではない)は直接給付型の政府支出を毛嫌いし、国民の所得不足を加速させる。
ともに、「国民を困窮から救うよりも、ワイズスペンディング(支出目的の取捨選択)が大切」という自己責任論まみれの陳腐な発想だ。
彼らは経世済民の基本を忘れている。
何よりも「民を濟(すく)う」のを優先すべきなのに、「労働意欲が失われる」とか「悪平等が生じる」とくだらぬ言い訳を並べて、国民がたやすく貨幣を手にするのを邪魔しようとする。
そこにあるのは「経世済民」ではなく、「経世済“財”」だと非難されても仕方あるまい。
議論のボールを遠くに投げるのを恐れる臆病者は、四方八方からの批判にビクともせず、『必要なのは雇用を考えることだ。MMTの目的の一つは、連邦政府で雇用の受け皿をつくることだ。財政政策で連邦政府が雇用を保障し、誰でも仕事を得られるようにする。1千万人が現れたら1千万人を雇う。誰も来なくなれば完全雇用を達成したとということだ』と言い放つケルトン教授の心意気を見習うべきだ。
【参照先】https://www.nikkei.com/article/DGXMZO43709760T10C19A4000000/
リフレ派は、量的緩和さえやり続ければ民間経済主体が負債拡大に走り出すと妄想し、貨幣負債論者は、政府が「貨幣とは負債である故に「国の借金」は増えて当然だ」とアナウンスすれば国の借金に対する国民の疑念も晴れると自信満々だ。
彼らは、家計や企業による「負債の拡大」など、いともたやすく実現できると高を括っているが、現実は甘くない。
実質金利が下がろうが、予想インフレ率が上がろうが、カネを持っていない国民や企業は、自己防衛のため、値上がり前の駆け込み消費よりも節約の強化を選択する。
また、貨幣が負債だと聞かされた国民は、「国債ばかりか、お金も負債なんだって?? いったい誰が国の借金を払うんだよっ‼ 負債で借金を返せるのか? もう、カネの発行も止めろ(# ゚Д゚)」と、大逆ギレ必至だろう。
とある貨幣負債論者のブログから、貨幣負債論を語った箇所を抜粋する。
「MMTの基本は、貨幣の発行のしくみ、つまり、「現代のおカネは、(ほぼ)すべてが銀行の信用創造によって作られている」という点を理解することにあります。
信用創造によっておカネが作られるとは、世の中のおカネは、貸し出しによって作られるということを意味します。言い換えれば、「世の中のおカネは、すべて、誰かが銀行から借金することによって作られている」ということです。
逆に言えば、銀行から借金する人が居ないと、世の中からおカネが無くなることを意味します。借金しないと、おカネが不足するのです。これは事実です。(略)」
【参照先】http://noranekoma.blogspot.com/
経済を還流する貨幣の多くが、預金→融資(貸出)を通じた信用創造で生み出されたのは確かであり、その構造は、負債を背負う債務者が、資産を所有者する債権者から与えられる信用によって成り立つ。
貨幣負債論者は、「貨幣という負債の塊を増やし続ける」ことで、信用取引を永久に拡大し続けられると強弁するが、信用拡大を支えるために必要な“根源的資産”の存在を見落としている。
経済成長に伴い、投資や消費拡大を通じた企業や個人が借入(負債)を拡大するのは事実だが、「不況→負債拡大→好況」と一足飛びにはいかない。
負債が順調に拡大するには、その前提として“好況状態の経済”が存在する必要がある。
民間が負債を嫌うなら、政府が国債を増やし負債を拡大すればよいのだが、現実には、「民間がカネに困り節約に苦心しているのに、政府がバラ撒きなんてけしからん!」と国民の大反対に遭い、国債増発など望み薄の状況だ。
“国民総借金恐怖症”なる難病を克服するにあたり、「貨幣はもともと負債だから、負債を増やさぬ限り経済成長なんてありえないだろ?」という屁理屈が通用すると思う方がどうかしている。
借金恐怖症の病根は、負債の返済原資を見つけられず、負担を負わされるのを恐れる国民の不安感や不信感にあり、「皆さんが欲しがる貨幣は負債ですよ」なんて言った日には、「えっ? お金が借金だなんて… こりゃ、日本も終わりだわ」とパニックを招くだけだろう。
それが信じられないなら、自分の家族や知人に「貨幣は負債だよ。解るよね!?」と聞き、相手の反応を見ればよかろう。
“誰かの負債が、他の誰かの資産”であり続けるためには、債務者の信用を裏付ける資産、負債の返済に疑念を抱かずに済む資産がなければならない。
債権者が信用取引に応じ、債務者の負債拡大に協力するのは、負債の対価として受け取る貨幣が、国が最終的に保障する“国民共有の資産である”との理解が広く共有されているからに他ならない。
負債と資産による無限の相互創出行為の行き着く先は国家が保証する「資産」でなければ、経済活動は萎縮し、やがて破綻してしまうだろう。
民間経済主体に負債負担の責任を押し付け、負債拡大に期待しまくった挙句、資産(貨幣)不足という現実に抗えず惨敗したリフレ理論や構造改革論の失着を思い起こせばよい。
国家が通貨発行権を発動して創造する貨幣は、生まれながらの「資産」であり、資産として実体経済の海に流入し、貸借契約という取引に使用され初めて負債へと姿を変える。
もともと資産としての役割を与えられた貨幣は、民間経済における使用用途に応じて、負債や資産に形を変えているだけに過ぎない。
また、貨幣負債論者は、スペンディング・ファースト(支出が財源確保に先行)と信用創造の仕組みが同じ、つまり、民間銀行の信用創造のメカニズムが政府支出でも起きているゆえ、貨幣は負債だと主張する。
「財源を確保してから財出項目を決めるのでは遅すぎる。まず、国家がやるべき政策を定め実行に移す。財源は国債や貨幣増発で後から捻出すればよい」とし、そこから「税は歳出の財源ではない」という結論に導くスペンディング・ファーストの発想には、筆者も大いに共感する。
スペンディング・ファーストは、税に依存せず通貨発行と国債増発を主軸とする歳入構造改革を訴えてきた筆者の主張とも軌を同一にするものだ。
ただし、それは「預金が先か、貸出が先か」という信用創造論争とは別問題だ。
スペンディング・ファーストとは、税収に縛られない歳出構造により社会的課題や政策課題解決のスピードUPを図るための理屈づけであるのに対して、民間銀行の信用創造における「貸出ファースト論争(預金が先か、貸出が先か)」は、ただ単に“誰かの負債”と“他の誰かの資産”とを無限拡大させる着火点が「預金or貸出」なのか、という先陣争いでしかなく、両者を同一の概念で論じるのはまったく無意味だ。
「そもそも、政治や政府の役割はカネ集めではない。財源探しに熱中して国民に負担を押し付けるのではなく、幾多の社会的課題解決を優先し、国民生活の向上に専念すべき。そのためには、国民に抵抗感の強い税に依存せず、貨幣や国債増発でスピーディーに財源を確保すればよい」というのが、スペンディング・ファーストの存在意義であり、“貨幣は負債です”なんていうバカげた空想論を唱えるためではない。
その点を勘違いした貨幣負債論者は、「政府は税収は一切関係なしで、日銀に借金をして(政府短期証券の発行)つまり貨幣を発生させて、国民に支払いを行っています。負債によって発生した貨幣は、返済で消滅しますが、政府支出も同じで税で徴収された貨幣は消滅するのです」などとアホなことを抜かす。
この一文には二つの誤りがある。
一つは、借金でも負債でもない政府通貨発行を意図的に省き、貨幣発生ルートを国債だけに限定し、貨幣は負債によってしか発生しえないと大嘘を述べている点だ。
読者の皆様もご存じのとおり、政府は国債発行(負債発生)という方法だけでなく、貨幣製造(造幣益発生)というルートからも貨幣を供給することができるし、現にやっている。(硬貨製造)
もう一つは、税で徴収された貨幣が消滅するという勘違いだ。
国庫に収納された税は、次年度の予算として再び民間経済へ放出されるし、よしんば、それを国債償還に充てたとしても、それを受け取る金融機関の口座に入金されるだけだ。
そこで消滅するのは「負債⇔資産、債権⇔債務」の関係だけであって、決済に使われた貨幣そのものは消えない。
そもそも、税制や信用創造、国債、複式簿記あたりの仕組みやメカニズムから、貨幣の本質を説明しようとすること自体がおこがましい。
貨幣は、税(金納制度)とか簿記が世に登場するより遥か以前に存在し、太古の昔から人々の生活に根付いているのだから、後付けの制度を以って貨幣の正体を暴こうなんて、土台無理に決まっている。
愚かな貨幣負債論者には、「貨幣は国民共有の資産である」と暗記してもらうしかない。
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