連日報道される仕分け作業も蓮舫の高圧的な態度に少々食傷気味。


 作業自体も、廃止や縮小ありきのパフォーマンスが目立ち、さながら官僚いじめ用の査問会といった様相だ。


 先日も、日本科学未来館の毛利館長を呼びつけ、来館者が伸びているにもかかわらず何で赤字なんだと難癖を付けて予算を削減した。それなら、毎年大幅な赤字財政(個人的には問題ないと考えるが…)なのに、のうのうと歳費や政党助成金を受け取っている政治家の存在意義は何なのかと考える。


 今回の仕分け作業では、スーパーコンピューターやロケットなどこれまで聖域扱いであった科学技術分野の予算も大幅にカットされている。これに対しては賛否が分かれるところだろう。賛成する人は、経済情勢が厳しい中で実生活に役立たないロケットやコンピュータに投資する必要があるのかと言うだろうし、反対する人は、科学技術立国としての成長戦略を放棄するのかと憤るだろう。


 確かに一般の国民にとって、ロケットやスーパーコンピューターの存在など普段の生活には何も関係がないように思えるが、それに関連する業界の人々(大学、公的機関、メーカー、下請け企業、卸業者)やその家族にとっては実生活そのものなのだ。これは、無駄の象徴と言われるダムや道路とて同じこと。自分に直接関係ないものを片っ端から無駄と決めつけて排除するなら、この世から職業の大半が失われるだろう。


 日本は6~7千万人もの労働人口を抱えているうえ、更に4~5百万人もの潜在的な失業者が存在している。この膨大な数の働き手のうち、誰もが納得する必要な職に就いている人はどれくらいいるだろうか。恐らくほんの数万人程度ではないか。残りの大半は、大概あってもなくてもかまわないような企業や職に就いているはずだが、それを真に受けて、互いにあれは無駄だ、あんな職はいらないなどと非難し合っていては、到底7千万人規模の職を維持することなどできない。堕落した平和でも戦争に勝るのと同じで、無駄といわれる職業でも失業を放置するより社会に与える厚生は比べるべくもなく大きい。


 職やポストなど社会的なパイを増やして行かないと人心は荒廃するばかりで、努力することすら放棄する傾向が強まるだろう。無駄といわれるA分野の予算を削って、それを成長が期待されるB分野の予算に上乗せという、一見見栄えの良い政策では社会全体のパイを増やすことはできない。AかBかではなく、AにもBにも投資を増やしてこそ、全体のパイを拡大することができる。職が増えれば生活維持への安心感ができ、ポストが増えればそれを巡ってスキルが向上するのが当然で、国民にとって大きな利益につながるのだ。


 こういった前向きな努力を国民に放棄させるかのごとく「希望を捨てる勇気」などといったくだらない幼稚な本を出版するエセ経済学者がいるようだが、本当に経済を勉強したことがあるのだろうか。