先日、朝のTV番組(みのもんたのアジテーション番組)に名古屋市長の河村たかし氏が出演し、名古屋市議の定員の半減と議員報酬の大幅減額(24百万円→8百万円)という“政治改革”に取り組むと怪気炎を上げていた。


 同氏によると、①市議の家業化を防ぐこと ②立法という議員本来の仕事に取り組ませることが目的とのこと。今までの待遇が良すぎるから、大した仕事もせずに議員がその椅子にしがみつこうとするのだというのが氏の意見だ。


 上記の2点については私も大筋で同意する。政治家の家業化は、限られた範囲の者だけに政治参加のチャンスを与え、国民が持つ多様な意見を政治に反映させる機会を奪うことになりデメリットが大きい。このため、私は、裁判員制度と同じように、成人の中から任意のくじ引きで政治家を抽選する方式を推奨している。(同一人物の政治家就任は一度限りで、退任後は元の職場復帰と所得を保障)


何故なら、これまで民主主義の根幹とも言われてきた選挙制度こそが、政治への最大の参入障壁だと言えるからだ。選挙になれば、供託金の納付、事務所の設営や応援スタッフ、選挙カー、ポスター作製など一般の人間では到底準備できない手間や資金が必要になる。そればかりか人前での演説や政治信条の公開など自らのプライバシーをさらけ出さねばならない。そのうえ、現在の職場を放棄せざるを得ない場合も多いなど、負担が大きすぎるため、それこそ政治を家業にしているものでなければ立候補すらできない。選挙制度が続く限り、政治の家業化はなくなることはないだろう。 


 また、議会(特に地方議会)が、行政の監視役(文句さえ付けておればよい)という簡単で目立てる仕事に逃げ込み、本来果たすべき立法の仕事から逃げ回ってきたことに強い不満を感じてもいる。立法(地方でいえば条例)という仕事は、行政の骨格となる叩き台を示すことで、叩き台であるだけに、住民やマスコミからの批判にも晒される。本来ならば、この厄介な役目を住民の代表たる議員が引き受けるべき(厄介だからこそ報酬も高いのが当然)なのに、その汚れ役を行政側に押し付けて、自分たちはマスコミや住民と一緒になって行政に文句ばかり垂れてきたのだ。


 だが、河村市長の幼稚なパフォーマンスに乗って議員報酬を大幅に減額することには断じて反対する。どんな仕事でもそれに伴う役得というものがあり、それがあればこそ仕事に情熱を傾けることができるのだ。何事も清廉潔白さばかりを押し付けられてはモチベーションを長く保つことはできない。


 河村市長の主張するように、政治家の家業化が廃され様々な人が議員に就任し、立法という本来なすべき仕事をするようになったとして、議員報酬がサラリーマン並みではやる気も起こるまい。前述のように、多大な手間や資金を投じてやっとこさ議員になっても、大した報酬もないのでは、当選直後こそ小ぎれいなことを言えても、次第にモチベーションが維持できなくなり、やがてはやる気を失っていくだろう。


 そもそも、この河村市長風情に市議たちを批判する資格はない。氏こそ、93年に衆議院議員に当選して以降、手を変え品を変え政界を渡り歩いており、自分こそが政治家を家業化している人物だからだ。


 議員になる前は、家業の古紙回収業の役員をしていたそうだが、いま話題の阿久根市のバカ市長(自衛官→家業を継ぐ→市議会議員→市長)の経歴とよく似ている。似ていると言えば、両人とも公務員批判をして住民の支持を得た点も同じだ。疲弊した地域住民に比べて公務員の待遇は恵まれすぎているという幼稚な大ウソを声高に主張しているが、自分たちこそ公務員や政治家という“恵まれた”立場を渡り歩いている。更に、困ったとき(落選中)には実家に泣きつき、家業に縋ってきた小心者に過ぎない。こんな逃げ込む場所に恵まれた卑怯者に公務員を批判する資格があるとは到底思えない。


 こんな卑怯者を市長に当選させた住民の民意とは何だろうか。


 公務員への妬みという薄汚い動機に裏打ちされた民意を過大評価する必要はない。