『光る君へ』第21回「旅立ち」

 

春はあけぼの

 

春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは すこしあかりて むらさきだちたる雲の細くたなびきたる

 

泣く子も黙る名文です。

この章段は散文詩だと思いますね。

現代語訳するのが清少納言への冒涜のような気すらしてきます。

この文章はこのまま味わうべきかと。

 

大河ドラマ史上、屈指の美しきシーンと評しているのを見かけましたが、本当に素敵な演出だったと思います。

 

 

日本古典文学全集(小学館)では、『枕草子』の成立については以下のように書かれています。

 

まず、三巻本に従ってごく大づかみに結論を言ってしまえば、作者が宮仕えに出てしばらくして書き出され、長徳元年(九九五)、二年のころにはそのうちのある部分が成立しており、その後また書き継がれた、というようなことになろうか。

 

ドラマでは長徳二年(九九六)に、定子が出家したあとから書き始めたという演出になっていました。

まあでもそのおかげで、あの美しき主従の心の交流シーンが生まれたのでGoodです。

 

ただ、紙の使い方はもったいないと思いました。笑

高価で貴重な紙を中宮様から下賜され、それに『枕草子』は書かれたのだ、という話は『枕草子』の跋文に書かれており、ドラマではまひろ(紫式部)がその話を「そういえば…」と語り、清少納言に何か書くよう勧めるという展開になっていました。

 

その高価な紙に、大きな字で余白たっぷりに惜しげもなく書くということはないだろう、とは思いました。笑

が、これも演出の都合ということで。

 

 

伊周の配流

 

無能の権化として扱われている伊周くん。

ついに観念して太宰府へと向かうことになりました。

それも母親に「私も一緒に行きます」と説得されようやく重い腰を上げたわけです。

その母親も「同行することはまかりならぬ」と帝のご下命により、母貴子は都に連れ戻されてしまいました。

 

このシーン『栄華物語』では次のように書かれています。

 

帥殿(伊周)は播磨国に、中納言(隆家)は但馬にとどまりなさるように、との宣旨が下った。

このことを定子様は人づてにお聞きになって、非常に嬉しい、などというありきたりな言葉では言い表せないほど嬉しくお思いになっておられ、そのこともしみじみあわれ深いことがこの上なかった。

伊周は、関戸院で自分が播磨国にとどまりなさることになったとの報せを受けたので、非常に嬉しくお思いになって、

 

「それでは母上は早く都へお帰りください。都からほど近い地にとどまることになりましたので、とても嬉しくございます。また、私はなにも過ちは犯しておりませんので、いくら何でも都へ召し還される日がきっとくるでしょう」

 

などと、泣く泣く申し上げ慰めなさって、母を都へと帰し申し上げなさる。

 

ちなみに、関戸院というのは今の大阪府三島郡にあった施設だそうで、今は神社があるようです。

 

上記『栄花物語』では、伊周が母親を都に戻るよう諭していますが、ドラマでは、道長と実資が手勢を引き連れて伊周・貴子の一行に追いつき、無理矢理母親を牛車から引きずり下ろしていました。

 


 

『光る君へ』第22回「越前の出会い」

 

鸚鵡・オウム

 

 

宋の国から朝廷への献上品の中にオウムがありました。

「ニーハオ」と挨拶していましたね。

 

これまた『枕草子』で、「鳥は」という章段に出てきます。

 

鳥は こと所のものなれど、鸚鵡いとあはれなり。人の言ふことをまねぶらむよ。

 

こと所…異国

まねぶ…真似する

らむ…現在の伝聞を表す助動詞

 

現代語訳するまでもありませんね。

もっと長い章段なのですが、省略します。

清少納言は鶯が好きではなく、郭公(ほととぎす)が好きだということが語られる章段です。

 

 

伊周の帰京と貴子の死

 

あっけなく秋になったので、世の中はますますしみじみとし、荻に吹きつける風の音も、遠いところにいる子息たちのご様子を知らせるそよめきのようにお感じになるのだった。

播磨からも但馬からも、毎日のように人が見舞いに参上する。

北の方(貴子)のご病気は日に日に重くなっていくばかりだったので、うわごとに言うのは他にはなく、ただ

 

「帥殿(伊周)をもう一度見申し上げてから死にたい、帥殿をもう一度見申し上げてから死にたい」

 

ということを、寝ても覚めてもおっしゃるので、定子様も非常に心苦しいことにお思いになり、ご兄弟の方々も、どうするのがよかろうかと思い悩むけれど、やはり非常に恐ろしい。

北の方はしきりに泣いて恋しがり申し上げなさる。

その様子を見聞きし申し上げる人々も、心配に思い申し上げている。

播磨の帥殿はこのことをお聞きになって、「どうしたらよいだろうか、ことが露見したら、我が身はいよいよ世の中で役に立たないものとなりはてて、今度こそ都に戻ることなく死ぬことになろう」など、様々に思い続けなさり、ただとにかく御涙ばかりが絶え間なく流れ続けていた。

「えい、もうどうにでもなれ。こう落ちぶれた身が今さらどうなろうというのか。これ以上に酷いことがあるものか」とお思いになって、「親が臨終でいらっしゃるのを見舞いに参上したといって、朝廷が私を罰し、また神仏までもお憎みになるなら、やはりそういう運命だったようだと思うしかない」とご決心なさり、昼も夜も関係なく無我夢中に上洛なさる。

さて、定子様のお住まいでは目立ってすぐ噂が広まるだろうということで、帥殿は右京の西院という所に、人目に付かないよう厳重に気をつけて夜中にいらっしゃったので、定子様も北の方もたいそう人目を忍んでそこにいらっしゃり、対面した。

この西院も、故道隆殿がまだご存命だったころ、北の方がこのような所にわざわざ目をお掛けになり世話をしていらっしゃったので、その時のご温情に感謝して、秘密を漏らしたりはしないはずの所だとお思いになったのだった。

北の方も、定子様も、ご兄弟も、帥殿も、お互いに顔を見合わせ申し上げなさって、また今更のご対面の喜びの涙も、非常におおげさに思われるほど甚だしい。

 

これは『栄華物語』にある記述です。

これだと、伊周は母が息を引き取る前に何とか対面を果たしています。

が、ドラマでは間に合わなかったという設定になっていました。

検非違使らが先回りして伊周の行く手を阻んでいましたね。

 

また、同じ『栄華物語』にて、伊周の上洛を密告した人物について、「平孝義」であるとしています。

 

それにしても、この伊周の入京については、越後の前の守・平親信という人の子で、といってもたくさんお子がいらっしゃったのだが、その中の、右馬守孝義といって、歌を詠み、何らかの行事があれば付き従うものとして召し出される者がいたのだが、その男が申し出たことだったので、「朝廷のために安心なことを申し出た」ということで、昇進させなさったので、喜びの報告をしに父のもとに行ったところ、親信朝臣は、

 

「どこに、誰の所だと思ってここへやって来たのか。身分にふさわしくない、薄情なことだ。密告などということは、間違っても我々身分のある家の者が言い出してよいことではない。このようなことは、粗野な田舎者や町女などという連中のすることだ。驚き呆れた情けないことを申し出て、人様の御胸を焼き焦がし、人の嘆きを負う、これが良いことなのか」

 

といって、聞いていてきまり悪いほど大きな声で罵倒したので、孝義は恥じて出て行ってしまった。

 

『小右記』でも密告者は平孝義とされており、やはり位が一つ上がっていると書かれているようです。

 

さて、貴子が亡くなったあと、悲嘆に暮れる定子と一人で側仕えを続ける清少納言の姿が描かれました。

 

 

鈍色にびいろの装束を羽織り、喪に服す定子と清少納言。

古文でよく登場する鈍色の衣装、実際に身につけて動く姿を見られたのは良かった。

 

にしても、僕が想像したのよりも淡かったですね。

 

 

吉岡幸雄氏の『源氏物語の色辞典』という本に載っている鈍色の写真です。

 

亡くなった人との関係性により、鈍色の濃さが変化します。

もちろん、家族がもっとも濃い鈍色、関係が浅くなるにつれて鈍色が淡くなっていきます。

定子と清少納言は同じ濃さの鈍色を身につけていました。

清少納言は定子に仕える女房に過ぎませんが、腹心の家来ですし、同じ濃さの鈍色を身につけることが許されたのですね。

 

『源氏物語』でも、紫の上が亡くなった後、喪に服す女房たちの中で、古くから仕えているベテランの女房は濃い鈍色を着ていた、という記述があります。

 

ちなみに、同書によると「鈍色の濃淡を染め出すには、団栗どんぐりや矢車やしゃなどの実を煎じたあと、錆びた釘などを粥かゆと木酢や米酢をあわせ、鉄分が溶けた鉄漿かねという液を使って発色させる」と説明されています。

 


 

『光る君へ』第23回「雪の舞うころ」

 

うつくしきもの

 

うつくしきもの

瓜にかきたるちごの顔。雀の子のねず鳴きするにをどり来る。

二つ三つばかりなるちごの、いそぎて這ひ来る道に、いと小さき塵のありけるを、目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人ごとに見せたる、いとうつくし。

頭はあまそぎなるちごの、目に髪のおほへるを、かきはやらで、うちかたぶきて物など見たるも、うつくし。

 

〈中略〉

 

鶏の雛の、足高に、白うをかしげに、衣短かなるさまして、ひよひよとかしがましう鳴きて、人の後先に立ちてありくもをかし。

また親の、ともに連れて立ちて走るも、みなうつくし。

かりのこ。瑠璃の壺。

 

 

 

清少納言の書いた文章を定子様が嬉しそうに読み上げるシーンが印象的でした。

ここで読み上げていたのは『枕草子』のなかの「うつくしきもの」という章段の最後の方です。

この時の定子様は本当に心が晴れるといった様子でした。

 

かわいらしいもの

瓜に描いた赤ちゃんの顔。雀が、ネズミの鳴き真似をすると踊るように跳ねながら寄ってくるの。

二、三歳くらいの赤ちゃんが、急いで這って来る途中で、たいそう小さいゴミがあったのを目ざとく見つけて、とてもかわいらしい指につまんで、おとなに会うたびにそれを見せているのは、たいへんかわいらしい。

髪の毛は尼そぎにしている女の子が、目に髪がかかっているのを掻き払わないで、首をかしげて物などを見ているのも、かわいらしい。

 

〈中略〉

 

鶏の雛が、足が長くて白くかわいらしげに、まるで短い袴を着ているような格好で、ぴよぴよとやかましく鳴いて、人の後ろや前に立って歩き回るのもおかしい。また、親鳥が一緒に連れ立って走り回るのも、みなかわいらしい。

かるがもの卵。瑠璃の壺。

 

そして、とうとう定子が出産しました。

生まれたのは女の子、後の脩子内親王です。

この後、定子はついに還俗して帝の側に戻ることになるのです。

※還俗げんぞく・・・出家した人が、俗世に戻ること。

ただし、ケジメはつけなければならないので、内裏の外である職の御曹司(中宮職)に定子の御所は設けられることとなります。

 

 

そして、脩子内親王は一条天皇からかわいがられ、宮中でも重んじられる存在となります。

 

また、終盤で安倍晴明が「帝には男皇子もお生まれになります」と予知していましたが、この2年後にいよいよ敦康親王が誕生します。

以前にも書きましたが、この敦康親王こそが光源氏のモデルとして重要な存在になると思っています。

どう描かれるか、楽しみですね。

 

ちなみに、敦康親王の誕生と同じ年に、道長の長女・彰子が入内し、女御になります。

 

<<光る君へ12---光る君へ14>>

 

ブログランキング・にほんブログ村へ