大河ドラマ『光る君へ』が始まりました。
本題の前に、非常に印象的だったのは音楽。
物語冒頭、それから藤原為時が東宮に漢文の指南をするシーンで流れた音楽。
完全にリムスキー=コルサコフの《シェヘラザード》を模した音楽でした。
《シェヘラザード》といえばアラビアン・ナイト、すなわち『千夜一夜物語』です。
『源氏物語』を『千夜一夜物語』に比している感覚は面白いと思いました。
さて、本題に入りましょう。
吉高由里子がどんな紫式部像になるのか楽しみですが、初回は例によって例のごとく、子役回でした。
紫式部は陰気なイメージなのですが、吉高式部はそうでもなさそう。
ただ、目の前で母親が刺○されるというトラウマを負い、しかも父親から病死ということにすると言われ、これが藤原氏に対する憎しみの種として心に植え付けられたかもしれません。
さて、まずは権力者側の系図を簡潔に整理しましょう。
貞元じょうげん二年(977年)
ドラマはこの年から始まりました。
●円融天皇 19歳(在969年~984年)
●藤原兼家 49歳 権大納言
●藤原時姫 ??歳
●藤原道隆 25歳 備中権守
●高階貴子 ??歳
●藤原道兼 17歳 従五位下
●藤原詮子 16歳
●藤原道長(三郎) 12歳
●藤原伊周 4歳
●藤原定子 1歳
16歳時点の詮子を吉田羊が演じるのは無理がありましたね。
まあ、大河ドラマの常なので、そのうち役の方が追いついて、更に追い越していきます。
道長(三郎)は中心人物なだけあって、子役を使っていましたね。
リアルな12歳でしたが、それだけに詮子との年齢差は凄かった。笑
さておき、詮子が弟の道長を可愛がる様子がかなりしっかりと描かれておりました。
これは後々道長と伊周が権力闘争を繰り広げる際、詮子が道長を後押しする場面で重要になってくるものでしょう。
ドラマでは貴子がまだ生後間もない定子を祖父・兼家に抱かせるシーンが最初の方にありました。
名前は出ませんでしたが、この時貴子の右隣に座っていた少年が伊周これちかです。
東三条殿の夜の宴のシーン(道隆と貴子の管弦の合奏のシーン)では、道長(三郎)に遊び相手をしてもらっていました。
貞元三年(978年)
●円融天皇 20歳(在969~984)
●源雅信 59歳 右大臣→左大臣
●藤原兼家 50歳 権大納言→右大臣
●藤原時姫 ??歳
●藤原道隆 26歳 備中権守→右近権中将
●高階貴子 ??歳
●藤原道兼 18歳 従五位下
●藤原詮子 17歳 円融天皇女御
●藤原道長(三郎) 13歳
●藤原伊周 5歳
●藤原定子 2歳
●東宮(花山天皇) 11歳
詮子が今上帝(円融天皇)に入内しました。
8月に入内し、11月に女御の宣旨を賜ったそうです。
円融天皇が退位して上皇になった後、詮子は「女院」の称号を得るので、古典文学では「女院詮子にょういんせんし」とも呼ばれます。
詮子が入内したことにより、兼家は右大臣、道隆は中将へと出世したのに対し、道兼の官位は何にも変わりませんでした。
もともと荒っぽい性格だった道兼が、ますます短気で乱暴になったように描かれていたのは、父や兄が出世していくのに自分だけが置き去りにされていることへの不満が爆発していたということでしょう。
道兼の乱暴さを見かねた母・時姫が兼家に相談するシーンで、兼家は「道兼には汚れ役をやらせる」というようなセリフを言っていました。
これは、後に花山天皇を出家させる実行犯に道兼を指名する伏線でしょう。
そしてその花山天皇の東宮時代がちょいと出てきました。
官職を得られず困窮していた為時を、兼家が私費で雇って東宮の教育係に任じました。
「その代わり、東宮のことは些細なことでも漏らさずつぶさに報告せよ」との下命。
実は、花山天皇はヤヴァい天皇として名高い存在なのです。
東宮時代からそのヤヴァさがゴリゴリに描かれていましたね。笑
幼少期はヤンチャなきかん坊だったけど、大人になって立派に・・・なってねえな!!!
となるはずで、その最も強烈な話は、即位して帝になる重要な儀式の真っ最中に女官をレ○プしたというやつ
これが真実なのかどうかは知りませんが、「火のない所に煙は立たぬ」というわけで、そういうことをしても不思議ではない性質だったのは間違いないでしょう。
退位して法皇になった後も、性欲を抑えられずこっそり女性と関係を持ち、それが「長徳の変」へとつながっていきます。
また、帝の前に集まる公卿の中に、益岡徹が演じる源雅信が登場しました。
前年まで右大臣だったのですが、詮子の入内に伴い兼家が右大臣に昇進し、雅信は左大臣に昇進しています。
まだ登場していませんが、雅信の娘・倫子が道長(三郎)の正妻となります。
続きまして、紫式部の系図です。
貞元二年~三年(977年~978年)
●藤原為時 29歳~30歳
●藤原為信女 ??歳
●藤原宣孝 ??歳
●紫式部 ??歳
●惟規(太郎) 4歳?~5歳?
紫式部の母である為信女は、ドラマでは「ちやは」となっていました。
紫式部が幼い頃に亡くなったのは事実らしいのですが、ドラマでは道兼に刺○されるというショッキングな展開になっていました。
これはオリジナルストーリーでしょうね。
藤原為時を演じるのは岸谷五朗。
堅物で融通が利かない学者というキャラクターでした。
世渡り下手で無官の為時を宣孝が訪れ、大納言兼家に官職を得るための口利きを依頼するようアドバイスをしていました。
宣孝を演じるのは佐々木蔵之介で、為時とは対照的に世渡り上手なキャラクター。
宣孝は確かに生誕年が未詳みたいですが、それにしても佐々木蔵之介かあ。
これが後に紫式部と結婚するの???
紫式部の幼少期は「まひろ」という呼び名に設定されていました。
紫式部の生誕年も未詳ですが、ドラマ的には6~8歳くらいのように見受けられました。
宣孝は為時とほぼ同年代という設定になっているようなので、30歳前後でしょうかね。
なるほど~~。
それはそれとして、『紫式部日記』や『源氏物語』のネタが出てきました。
『紫式部日記』には次の一説があります。
この式部の丞といふ人の、童にて書読みはべりし時、聞きならひつつ、かの人はおそう、読みとり忘るるところをも、あやしきまでぞさとくはべりしかば、書に心入れたる親は、口惜しう、男子にて持たらぬこそ幸なかりけれとぞ、つねになげかれはべりし。
〔この式部の丞という人(=惟規)が、まだ幼児で漢籍を読んでおりました時、私も傍で聞き習っていて、惟規は理解が遅く、読み取りを忘れてしまう所も、私は不思議なほど賢くございましたので、漢籍に思い入れの強かった親は、「残念だ、お前を男の子として持たなかったことが不運だったなあ」といつも嘆いておられました〕
後に惟規のぶのりと名乗ることになる太郎は、父為時の漢文の講義を聞こうとせず、乳母らしき女性に甘えて遊んでいましたね。
一方の紫式部(まひろ)は積極的に為時から漢文を習っていました。
『蒙求』とか『史記』の中にある「鹿を指して馬と為す」が出てきました。
また、飼っていた小鳥を逃がしてしまうシーンが出てきましたね。
これは『源氏物語』「若紫」巻の有名なシーンと重なります。
髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。「なにごとぞや。わらはべと腹立ちたまへるか」とて、尼君の見上げたるに、すこし覚えたるところあれば、子なんめりと見たまふ。「すずめの子をいぬきが逃がしつる。伏せ籠のうちにこめたりつるものを」とて、いとくちをしと思へり。
〔髪は扇を広げたようにゆらゆらと揺れて、顔は涙を手でこすっているために赤くなって立っている。「なにごとですか。子どもたちと喧嘩でもなさったのですか」と言いながら顔を上げた尼君に少し似ているので、光源氏は『この少女は尼君の子のようだな』とご覧になる。少女は「雀の子をいぬきが逃がしてしまったの。伏せ籠のなかに入れておいたのに…」と言って、とても残念がっている。〕
光源氏が病気療養のために訪れた北山で、初めて若紫の君を垣間見たシーンです。
紫式部が体験した出来事が『源氏物語』の中に登場するということのようですね。
ということは、小鳥を追いかけて川原まできた紫式部(まひろ)が出会った藤原道長(三郎)は光源氏のモデルになるのか?
まあ、光源氏のモデルは複数の人物像をミックスしたもの、とも言われるので、その1人ということかもしれません。
しかし、個人的には光源氏のモデルは敦康親王(一条天皇と中宮定子の子)が中心であってもらいたい。
さて、紫式部(まひろ)が道長(三郎)に嘘を語るシーンがありました。
自分は帝の血を引く姫宮なのだ。母親が宮中に仕える女房で、帝の寵愛を受けて生まれたのが自分なのだ。しかし母親の身分が低かったため、自分は帝の子として認知されなかったのだ、と。
これも『源氏物語』に関わってくると考えた方が自然なのですが、そんな姫宮はいたかなあ?
●低い身分で帝に寵愛された = 桐壺更衣
◆母親が身分の低い女房だったため、父(八の宮)から認知されなかった姫 = 浮舟
この2人の身の上を掛け合わせると、紫式部(まひろ)の語った嘘と重なります。
全般に、言葉遣いが軽妙でしたね。
大河ドラマで戦国時代を扱うと、たまに出てくる公家の言葉遣いは特徴的です。
が、今回は全編が公家の世界なので、そのすべてがあの口調だと視聴者が受け入れられない、ということじゃないかと思いました。
あと、安倍晴明にユースケ・サンタマリアを起用したのはなぜ?
ミスキャストというほどではないにせよ、今の時点では起用した意図が分かりません。
今後説得力が出てくることに期待。
今後毎週書くというわけではありません。
気負いせず、書こうと思った時に書きます。