さて、お婆さんがかいがいしく手当てをして世話をした雀は元気を取り戻して飛び立っていきました。

その後の展開やいかに。

 

そうして二十日ほどたって、このお婆さんが座っているあたりで、雀がしきりに鳴く声がしたので、「雀がしきりに鳴くようだ。あの雀が来たのだろうか」と思って出てみると、まさしくその雀だった。

 

「なんと、忘れずにやってくるとはかわいいのう」

 

と言っていると、お婆さんの顔を見て、くちばしから何かをちょっと置くように落として飛んで行った。

お婆さんは「何だろう、雀が落としていったものは」と思って近づいてみると、ヒサゴの種を一粒落としていったのだった。

「持ってきたのには何かわけがあるのだろう」と思って手に取った。

子どもたちは、

 

「ああ情けない。雀の落とし物を宝にしていらっしゃるよ」

 

と言って笑うが、とにかく植えてみようと思って植えてみたところ、秋になるとたいそう大きく成長して、普通のヒサゴとは比べようもないほど大きな実がたくさんなった。

お婆さんは喜んで、隣近所の人々にもお裾分けしたが、ヒサゴの実は採っても採っても尽きることがない。

お婆さんを笑っていた子や孫たちもこれを毎日食べている。

里中に配ってまわってもきりがなく、最後に、とてつもなく大きな七、八個は瓢箪にしようと思って家の中に吊して干していた。

それから数ヶ月後、もう良いころだろうと思って見てみると、ちょうど良い状態になっていた。

下ろして口を開けようとしたところ、ちょっと重い。

不思議ではあったが口を切って開けてみると、ぎっしりと何かが詰まっていた。

「何だろう」と思って中身を出してみると、お米が入っていたのである。

思ってもみなかったことに驚いたお婆さんは、大きな容れ物に残りもみな出してみると、最後まで全部お米だったので、「ただごとではないなあ。あの雀がしてくれたことにちがいない」と非常に嬉しかったので、お婆さんはそれを大事に仕舞って、他の瓢箪も見てみると、すべて同じくお米が入っていた。

これを少しずつ取り出して使っていたが、とても食べきれないほどの量だった。

こうしてお婆さんは非常に裕福になった。

隣里の人たちもこれを見て驚き、非常に珍しいことだと羨んだ。

 


 

「瓢箪から駒」ならぬ「瓢箪からコメ」であり、「鶴の恩返し」ならぬ「雀の恩返し」であります。

 

そもそも、この話の本当のタイトルは「腰折れ雀」ではなく「雀報恩の事」なんですけどね。笑

 

さて、瓢箪ですが、本文では単に「瓢ひさご」と出てきます。

 

ヒサゴとは、ウリ科の植物である瓢箪や夕顔を指します。

 

瓢箪にも品種がいくつかあるようなのですが、一般的な瓢箪は毒があって食べられません。

この話では食べているので、夕顔なのかもしれません。

 

はっきりと分からなかったのでそのまま「ヒサゴ」としておきました。

 


(原文)

 

さて二十日ばかりありて、この女の居たる方に雀のいたく鳴く声しければ、「雀こそいたく鳴くなれ。ありし雀の来るにやあらん」と思ひて出でて見ればこの雀なり。

「哀れに忘れず来たるこそ哀れなれ」

と言ふほどに女の顔をうち見て口より露ばかりの物を落して置くやうにして飛びて去ぬ。

女、「何にかあらん、雀の落して去ぬる物は」とて寄りて見れば、瓢の種をただ一つ落して置きたり。

「持て来たるやうこそあらめ」とて取りて持ちたり。

「あないみじ。雀の物得て宝にし給ふ」とて子ども笑へば、「さはれ植ゑて見ん」とて植ゑたれば、秋になるままにいみじく多くおひひろごりて、なべての瓢にも似ず、大きに多くなりたり。

女よろこび興じて、里隣の人にも食はせ、取れども取れども尽きもせず多かり。

笑ひし子孫もこれをあけくれ食ひてあり。

一里配りなどして、果てには「誠にすぐれて大きなる七つ八つは瓢にせん」と思ひて内に吊りつけて置きたり。

さて月比経て「今は良く成りぬらん」とて見れば良くなりにけり。

取りおろして口あけんとするに、少し重し。

あやしけれども切りあけて見れば、物ひとはた入りたり。

「何にかあるらん」とて移して見れば、白米の入りたるなり。

「思ひかけずあさまし」と思ひて大きなる物にみなを移したるに、同じやうに入りてあれば、「ただごとにはあらざりけり。雀のしたるにこそ」とあさましく嬉しければ、物に入れて隠し置きて、残りの瓢どもを見れば同じやうに入りてあり。

これを移し移し使へばせんかたなく多かり。

さて誠にたのしき人にぞなりにける。

隣里の人も見あさみ、いみじき事に羨みけり。 

 

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