雀が登場する昔話だと、「舌切り雀」が有名です。

お爺さんが大事に世話をしていた雀の舌をお婆さんがちょん切ってしまう話です。

 

今回は、それとは少し違うお話で、鎌倉時代の説話集『宇治拾遺物語』に収められているものです。

 

昔々、春の穏やかなある日、六十歳くらいのお婆さんがシラミをとっていた。

すると、庭を雀が歩いていたところ、こどもたちが石をぶつけて腰を折られてしまった。

羽をバタバタさせて倒れているところに、カラスが近くを走り回っていたので、「おやまあ、かわいそうに。カラスが捕まえてしまうだろう」と思って、お婆さんは急いで雀を手に取ると、息を吹きかけたりしながら介抱し、ものを食べさせてやった。

夜はこの雀を小さな桶に入れておくことにした。

朝になれば米を食べさせたり、銅を削って薬にして与えたりしていたので、子や孫たちは、

 

「なんだ、婆さんは耄碌して雀を飼っておられるよ」と、憎らしく思って笑っていた。

 

こうして数ヶ月の間、よくよく世話をしたところ、雀は次第に歩けるようになっていった。

雀の心にも、こんなに良くしてもらったことを、たいそう嬉しく思った。

お婆さんは、ちょっと出かけるときにも、

 

「この雀をよく見といておくれ。ちゃんとものを食べさせておくれ」などと言うので、子や孫たちは、「まったく、どうして雀なんか飼っておられるのか」と憎らしく思って笑うが、「まあいい、かわいそうだから言う通りにしよう」と思って世話をするうちに、雀は飛べそうなほど元気になった。

 

「もうカラスに捕まることもないだろう」と言って外に出て手に乗せ、

「飛ぶかどうか、見てみよう」と言って手をかかげてみると、ふらふらと飛んで行く。

 

お婆さんは長い月日、夜は桶に入れ、朝になればものを食べさせきたので、寂しさから、

 

「ああ、飛んで行ってしまったよ。また遊びに来るといいなあ」などと寂しさのあまりに言ったところ、それを聞いた人に笑われた。

 


 

お婆さんが雀を助ける話です。

銅を削って薬にしていますが、実は、銅は漢方薬の有効成分として用いられているらしいです。

 

ところで、雀を保護したという話は近年にもありました。

モト冬樹さんが、カラスに襲われていた雀を保護して飼っていたものの、野鳥の飼育は鳥獣保護管理法違反にあたるのではないかと騒がれてニュースになりました。

2017年~1018年くらいのことです。

なんとも世知辛いなあ、と思いました。

 

現代、自然との関わりは素朴さとかけ離れています。

人間があまりにも科学的な存在となりすぎた結果、不自然に歪められていると思う時があります。

 

千原ジュニアだったかな?

テレビ番組で、回想として次のようなことを語っていました。

 

外国(アフリカ?)に行ったとき、岩場で亀がひっくり返って動けなくなっていた。

それを助けるか助けないかで、コーディネーターたちが大もめにもめた。

千原ジュニアも巻き込まれて意見を聞かれたが、難しい問題だからガン無視した。

 

動けなくなった亀は、そのままだったらいつか他の動物のエサになるでしょう。

 

それは自然の姿です。

 

ですが、そこにたまたま人間が通りかかった。

その時、動けなくてもがいている亀を助けたいという「惻隠の情」が起こるのも、ひとつの自然の姿ではないのか?

動物が狩に成功するのも失敗するのも自然です。

問題は、そこに人間が関与することの是非です。

人間が「惻隠の情」を起こした結果、動物の狩が失敗に終わったとして、それが自然を歪めたことになるのか?

自然にわき起こる感情を押し殺すこともまた自然に反するのではないか?

 

もちろん、程度の問題があります。

いつもいつも人間が弱い生き物に肩入れして助けていたら、食物連鎖が成立しません。

 

また、世の中には悪い奴もいて、私利私欲のために自然界を荒らすこともあり得ます。

そういう人は、人間の欲望もまた自然だというかもしれません。

しかし、そもそも人間はむき出しの自然の中では生きられない存在です。

人間が生きていくためには、そのための環境を人間の手で作り、守っていかなければなりません。

街造りもそうだし、野山の管理もそうです。

その一環として、人間の欲望も適切に管理されるべきでしょう。

 

だから法があるのは当然でしょう。

とはいえ、カラスに襲撃された子雀を助けてそのまま飼っていたのを違法だと騒ぐのは不自然だと思いました。

 

話が逸れてしまいましたね。

では原文を載せて今回はおしまい。

続きは近日アップします。

 


(原文)

 

今は昔、春つ方日うららかなりけるに六十ばかりの女のありけるが、虫打取りて居たりけるに、庭に雀のしありきけるを、童石を取りて打ちたれば、当りて腰を打折られにけり。

羽をふためかして惑ふほどに烏のかけり歩きければ、「あな心う。烏取りてん」とて、この女急ぎ取りて息しかけなどして物食はす。

小桶に入れて夜はをさむ。

明くれば米食はせ、銅薬にこそげて食はせなどすれば、子ども孫など

「あはれ、女刀自は老いて雀飼はるる」とて憎み笑ふ。

かくて月ごろよくつくろへば、やうやう躍りありく。

雀の心にも、かく養ひ生けたるを「いみじく嬉し嬉し」と思ひけり。

あからさまに物へ行くとても、人に

「この雀見よ。物食はせよ」など言ひ置きければ、子孫など「あはれ何でふ雀飼はるる」とて憎み笑へども、「さはれ、いとほしければ」とて飼ふほどに、飛ぶほどになりにけり。

「今はよも烏に取られじ」とて外に出でて手に据ゑて、

「飛びやする。見ん」とて捧げたれば、ふらふらと飛びて去ぬ。

女、多くの月ごろ日ごろ、暮るればをさめ、明くれば物食はせならひて、

「あはれや、飛びて去ぬるよ。また来やすると見ん」などつれづれに思ひて言ひければ、人に笑はれけり。

 

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