日本の歴史上で放火事件というのは大小様々に数多く存在していますが、日本史で習う放火事件で最も古いのが「応天門の変」だと思います。

 

応天門というのは、平安京の真ん中を南北に走る大通り・朱雀大路を北上して大内裏の入り口にある朱雀門をくぐった先にあった門です。

この応天門の放火事件が応天門の変です。

この事件について、山川出版の日本史Bの教科書ではどう載っているか調べてみました。

 

858(天安2)年に幼少の清和天皇を即位させた良房は、天皇の外祖父として臣下ではじめて摂政になり、866(貞観8)年の応天門の変では、伴・紀両氏を没落させた。

①大納言伴善男が応天門に放火し、その罪を左大臣源信に負わせようとしたが発覚して、流罪に処せられたという事件。

 

と、超あっさり書かれていました。

放火をした伴善男とものよしおが源信みなもとのまことを陥れようとしたのですが、それを利用して逆に伴氏(と紀氏)を没落させたのが藤原良房ふじわらのよしふさということです。

このような、他の一族を没落させていく政策を「他氏排斥」というのですが、応天門の変も他氏排斥政策の一環とされています。

 

年代 事件名 事件の影響
 842年   承和の変  伴・橘両氏と藤原式家の失脚 
 866年   応天門の変   伴・紀両氏の失脚
 901年   昌泰の変  菅原道真の失脚
 969年   安和の変  源高明の失脚

 

上の表は藤原北家による排斥政策をまとめたものです。

最初の2つは藤原良房が、「昌泰の変」は藤原時平が、「安和の変」は藤原実頼が、それぞれ首謀者です。

 

これから3回にわたり、鎌倉時代に作られた説話集『宇治拾遺物語』で語られている応天門の変の記事を紹介していきます。

 

今となっては昔のことだが、清和天皇の御代に応天門が焼けてしまった。
これは放火だった。
それを大納言の伴善男が、

 

「これは左大臣・源信様のしわざです」

 

と帝に申し上げたので、帝が左大臣を処罰なさろうとしたところ、藤原良房が、すでに政治は弟である西三条の右大臣・藤原良相に譲って白河の地に籠もっていらした頃だったのだが、このことを聞いて驚きなさり、御烏帽子に直垂という姿のまま朝廷から賜った公用馬にお乗りになって、そのまま朔平門までいらして天皇の御前に参上なさると、

 

「このことは申す人の虚言でございましょう。いきなり大臣を罰しなさるなどという大事になさるのはおかしなことです。このようなことは慎重に慎重を重ねてよく吟味し、真偽の程を明らかにした上で始末をなさるべきです」

 

と奏上なさったところ、天皇は「もっともなことだ」とお思いになって吟味なさってみると、左大臣が犯人だという確かな証拠もなかったので、
 

「お許しになる旨の仰せを出せ」

 

との宣旨を承って良房はお帰りになった。
左大臣は罪を犯した事実もないので、このような身に覚えのない罪にあたることをお嘆きになって、束帯姿の正装で庭に粗い筵を敷いて座し、天の神に無実を訴え申し上げなさっていた。
そこに、お許しを伝える宣旨の使いとして頭中将が馬に乗って馳せ参じたので、「急ぎ罰せられる使いだ」と思って家中が泣き騒ぐが、お許しになる旨をおっしゃって帰ったので、今度は嬉し泣きの大騒ぎとなった。
左大臣・源信は許されなさったが、

 

「このまま朝廷にお仕えしていては、また無実の罪が出てきかねないことよ」

 

と言って、これまでと変わって、もとのように宮仕えもなさらなくなった。

 

初回でけっこう話は進みましたね。

いくつか、注を付けておきます。

 

●清和天皇・・・第56代天皇。当時17歳だった。「水の尾の帝」とも呼ばれる。

●伴善男…放火魔。当時56歳。「伴大納言ばんだいなごん」とも呼ばれる。

●源信・・・父親は嵯峨天皇。当時57歳。

●藤原良房・・・清和天皇の祖父にあたる。当時63歳で太政大臣。「忠仁公」とも呼ばれる。源信が容疑者にされたことを良房に伝えたのは、良房の養子である藤原基経だったらしい。

●藤原良相・・・「よしみ」と読む。当時54歳。藤原良房の弟。源信の捕縛に兵を差し向けたのが良相。

●朔平門・・・「さくへいもん」と読む。内裏の外側を囲う外郭の北正面にある門。良房はここまで馬で乗り付けた。

●烏帽子に直垂・・・庶民の服装であり、貴族が内裏に出向くのには相応しくない。良房が自邸で寛いでいたところ、急な知らせをうけて着替える暇もなく慌てて駆けつけた様を表現している。

 

 

さて、重箱の隅をつつくど!笑

 

上記、山川の教科書の記述では、当時藤原良房は摂政だったように読めますが、摂政に任じられたのは応天門の変を利用して伴・紀両氏を排斥した後のことで、注に書いた通り、この時点では太政大臣だったのだそうです。

 

どうでもいいですかね?笑

 

顛末は最初に紹介した通りですが、さて、この続きはどのように語られるのでしょうか。

 

お楽しみに。

 

(原文)

今は昔、水の尾の帝の御時に応天門焼けぬ。
人のつけたるになんありける。
それを伴善男といふ大納言「これは信の大臣のしわざなり」と公に申しければ、その大臣を罪せんとせさせ給うけるに、忠仁公、世の政は御弟の西三条の右大臣に譲りて、白河に籠り給へる時にて、このことを聞き驚き給ひて、御烏帽子直垂ながら移しの馬に乗り給ひて、乗りながら北の陣までおはして、御前に参り給ひて、
「このこと、申す人の讒言にも侍らん。大事になさせ給ふこと、いと異様のことなり。かかることは返す返すよく糺して、まこと、空言顕して、行はせ給ふべきなり」
と奏し給ひければ、「まことにも」と思し召して糺させ給ふに、一定もなきことなれば、
「許し給ふよし仰せよ」
とある宣旨承りてぞ大臣は帰り給ひける。
左の大臣はすぐしたる事もなきに、かかる横ざまの罪にあたるを思し嘆きて、日の装束して庭に荒薦を敷きて出でて、天道に訴へ申し給ひけるに、許し給ふ御使に頭中将馬に乗りながら馳せまうでければ、急ぎ罪せらるる使ぞと心得て、ひと家泣きののしるに、許し給ふよし仰せかけて帰りぬれば、また喜び泣きおびたたしかりけり。
許され給ひにけれど、
「おほやけに仕りては、横ざまの罪出で来ぬべかりけり」
と言ひて、殊にもとのやうに宮仕へもし給はざりけり。

 

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