前回の物語山に続いて、ヒルの出ない冬の間に下仁田の気になっていた場所を歩く。足あと


鏑川の姫街道沿いの岩山を再訪。芝ノ沢と初鳥屋の間にある岩稜で、時丸と呼ばれる。
御嶽が祀られており、前回登った時は小沢岳の帰りに寄り、短区間歩いて終わってしまった。そのときは夏に歩いたので、ヒルの餌食となり血を吸われた。
今回はここのみなので、御嶽山にまつわるものを探しながらゆったりと周回。帰りは初鳥屋の集落へ立ち寄り、以前から訪ねたかった石仏群の八十八箇所霊場を見てきた。
時丸の御嶽山は、予想以上に石碑が多くて驚いた。鏑川以南、南牧村に近い側のいくつかの御嶽山とは、御嶽の系統が違うような気もした。もう少し時代が下ったころに栄えた御嶽山だったのかもしれない。


以前夏場に訪れたとき。





2/26 晴れ


鏑川沿いの霊神碑のあるところに車を置いて歩き始める。

御嶽神像と各時代の先達たちの霊神碑が並ぶ。

元下仁田町長でいらした方の霊神碑も立っている。

きっと郷土の山を愛された方なのだろう。

道路の反対、急な斜面を上がっていくと一心行者像がいらっしゃる。

周辺山域の御嶽山は普寛行者像なので珍しい。
一心行者の流れを汲む行者が開山したのかもしれない。

摩利支天碑を祀るらしい第一岩稜は、おそらくこの一心さんの背後から取り付くのかもしれない。左側が断崖で危険なので、ここはパスして先へ進む。

岩根沿いの踏み跡をたどると御嶽神社跡。
石灯籠。建屋は倒壊している。

もしかすると摩利支天の岩頭へは、神社跡の裏手から取り付くのかもしれない。こちらも危険度高し。

岩壁下の石仏群。

熊野皇大神、不動明王、石宮、座生権現、日野神、女神像。
座生権現の背には「天下泰平」とあるので、おそらくは明治以降の比較的新しい時代のものと思う。

なんといってもこの不動明王。炎

憤怒の表情が迫力ある。でも全体を見ると少しかわいらしいところもある。ギャップが良い。
これと似た表情のお不動さまを横間地区の滝不動で見かけたことがあるので、同じ石工の作品ではないかと?

神社跡の先、大岩に大山祇命と思われる碑を見かける。

半分欠けているので「祇命」しかわからない。山ノ神として祀ったのだろうか。

第二岩稜への鞍部は、右手に岩壁、左へ登ると痩せ尾根になっている。
右手の黒々した岩壁基部。


岩壁基部に興味深い石碑があった。

「黒石神王?」。どんな神様だろうか?もしかするとこの碑の背後の黒々した立派な岩壁を祀っているのかもしれない。

危なげな第二岩稜の痩せ尾根には次々と石碑が出てくる。
浅間大神。


聖徳太子の向こうに初鳥屋の集落と上信越の和美沢橋。

足元には春日大神が転がっていた。その先に八幡大神が倒れていた。

そしてメインとなる御嶽神社の碑。

左に並んで倒れ掛かっているのは「天御中」(あめのみなかぬしのかみ)。
他に少彦名命も倒れていた。


御嶽神社碑のところから下に第一岩稜が見える。奥は御場山。

下の岩稜に目を凝らしても、摩利支天らしきものは見当たらない。倒れているのか、下に落ちたのか、それとももっと奥の末端に立てられているのか。

イワヒバたちが冬の乾燥の中頑張っている。


碑の下のわずかなスペースは、カモシカのフンで埋め尽くされている。

人も上がってこないから寝床になっていた様子。おうし座

屋根を失った石宮だろうか?水天宮と大己貴命。


いったん歩きやすい尾根になる。


登り上げて少し戻ると痩せ尾根の突端があり、そこには大井大神と八海山大神の碑が倒れていた。ここが第三岩稜と言えるかもしれない。

大井大神はどこの神様だろうか?

初鳥屋の集落と奥の一番高い山が日暮山。


突端の岩と御場山。

御場山の左背後の双耳の鋭鋒P1072が気になる。いつか行ってみよう。

恐るおそる覗き込む岩壁にはイワヒバがびっしり。びっくり



その後北東へ尾根を進むと岩稜の痩せ尾根はなくなり歩きやすい尾根になる。
途中、平凡な尾根上にいくつかの石碑が転がっていた。文字が読み取れない摩耗したものもある。

慧喜童子。


矜羯羅童子。

後ろで倒れているのは十一面観世音。八大童子が祀られるあたりが御嶽山だ。

その後パッタリと石碑は見られなくなった。

尾根上には境界杭が見られるようになる。御嶽山の世界からは外れたようだ。

820m圏から先は薄暗い植林。


木々の間に見え隠れする日暮山の山容が優美。

日暮山(にっくれやま)、哀愁を感じさせる美しい名前の山だと思う。別名「矢川富士」の名の通り秀麗な山容。日暮山も御嶽なので、いずれゆっくり歩きに行くつもり。上信越でトンネルに入る手前で見上げる姿も堂々としている。

右手側に前回歩いた物語山が遠望できた。

真ん中が物語、手前の鏑川右岸の横畑や大岩などの岩尾根群も気になるところ。

P823では新旧ふたつの石宮が置かれる。

ふたつとも屋根は落ちている。戻そうと思ったけど屋根がやたらと重い。あせる
奥の古い方の石宮は、嘉永元年(1848年)のもの。
なんで昔の石宮って、不釣り合いなくらい屋根が大きくて重いんだろう?!

P823先の鞍部。

右手へ下りれば鉱泉の芹の湯を通り芝の沢へ、左手へ出れば初鳥屋へ出られる。両側ともすぐ下に林道や作業道が来ている。

初鳥屋へ続く林道へ下りた。目の前に堰堤。


日暮山が見え隠れする。常に視界に入る気になる山だ。


林道沿いでは、堰堤の工事が盛んに行われている。


県道へ出てきた。


すぐの初鳥屋の集落へ入り八十八箇所霊場を見学。


中央の覆屋に弘法大師像。


大日如来。


馬頭観音。


石仏群の高台からの景色。のどかな山里の風景。

奥に日暮山。

庚申塔群。三尸塔も数多いのは珍しい。


初鳥屋の集落からの帰りに遠望した時丸の岩稜帯。

真ん中のピークに御嶽神社や聖徳太子碑が祀られていた。
その左の鞍部が黒石神の岩壁。右の岩稜にどうやら摩利支天碑があるらしい…。

行きに車で県道を走っていたとき気になるところがあったので、駐車地をそのまま通り過ぎて芝の沢方面へ歩く。
これもそのうち歩いてみよう。たしか道は廃道化していたような?


林道下南室線を入ると向こうに石碑群。


この庚申塔群を見に歩いてきました。

馬頭観音や十九夜塔なども並ぶ。

これがちょっと珍しいんです。

裏に文化改元とあるので1804年のもの。

「馬頭」の文字が金精様だったり馬になっていたりする。ちょっとおもしろい馬頭観音碑。


そんなこんなでまた少し県道を歩いて車へ戻った。車
尾根の上は軽井沢方面から冷たい風が吹きつけて寒かった。





あまり情報のない御嶽山なので、自分の足で歩いて探索できておもしろかった。照れ


結局、どこまでが御嶽の領域だったのかはわからず。800m等高線のピークの頃には、すでに石造物はなく、それより手前で八大童子や観音碑を見たのが最後だった。
尾根上には倒れている碑もあり、摩耗と土で汚れて読み取れないものもあった。痩せ尾根上にあるものは、谷底へ落下したものもあると思う。おそらく、尾根末端から始まる岩稜帯を中心に形成された御嶽行場だったのではないか。高みを目指して最後まで行くという感じではなさそう。
初鳥屋方面からの眺めや、集落から県道を南下していくときに見上げる岩稜の迫力はすさまじく、その荒々しく神々しい姿に御嶽の行場となったのではないかと思う。神社跡の不動明王の激しい憤怒の形相と威圧感のある岩壁がリンクする。
にしても、あの痩せ尾根にあれだけの数の石碑をよく持ち上げたなと…。底知れぬ凄みを感じる御嶽だった。
奥のP823付近は、和美峠を越える姫街道の抜け道があったと言われる。碓氷峠よりも女性の通過に寛容だったらしい姫街道。そんな姫街道もなんらかの事情で通れない人たちが裏の抜け道を通ったとか…。頂にあった嘉永の石宮は、御嶽開山よりも古いかもしれない。ペリーが浦賀に来たのが嘉永6年。そんな時代からの石宮は、いろいろなドラマを山の中で目撃してきたのかなと思うと、小さな石宮にちょっとロマンを感じた。