ジュンパ・ラヒリ 著 /  小川高義 訳
(あらすじ )
 ベンガル出身の若い夫婦アショケとアシマは、アメリカに渡り、男の子を授かった。年配の人に子供の名前をつけてもらうというベンガルの風習に従い、インドに住むアシマの祖母に、名前を考えてもらったが、何の手違いか名前を書いた手紙がいつまでたっても夫婦の元に届かなかった。そこで、幼少名として、ゴーゴリという名を付けた。アショケは若い頃、列車事故に遭い、重傷を負ったが、その時読んでいた、ゴーゴリの小説のぺージが風でめくれたことにより、発見・救助され、一命をとりとめたのが名前の由来であった。
 幼稚園に上がる頃は、自分の名を気に入っていたゴーゴリであったが、成長するにつれ、その珍しさが負担になり、二キルという名前に改名する。名前の由来を後に父から聞き、改名したことに対し、複雑な気持ちになるニキル。父の死、結婚などを通して、ゴーゴリという名前を見つめ直していく。
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 この作品は、5~6年前、友人に借りて読んだのですが、米文学の授業で、取り上げられたので、再読。以前、読んだ時は、ストーリーを追うだけで必死でしたが、今回は、じわじわと感動しながら読んだ。
 アシマの祖母がとても好き。アメリカに渡るアシマに、他の大人たちは、あれもこれもと注意をするのだけれど、祖母だけは、説教をせずに「楽しくおやんなさい」と甘いものを食べさせる。アシマはアメリカに行っても生活が乱れないことを見抜いていたのだ。私も、アシマのおばあちゃんみたいな人間になりたい。
 同じジュンパ・ラヒリ著の短編集『停電の夜に』の中に入っている「三度目で最後の大陸」も若い夫婦(同じく夫が大学に勤務)がアメリカに移住しする話だった。その中に出てくる、アメリカ人のおばあさんも好き。
 そして、ニキルと妻のモウシュミの歯車が狂っていく場面が切ない。モウシュミの抱える言葉に出せない人生への不満、そして、それを漠然とながらわかっているニキル。二人の気持ちがひしひしと伝わってくる。
 
 映画化もされているので、是非見たいのですが、近所ののゲオでは見かけないな。
 
今日の捨てるもの~。
 長男の中学の時の教科書。三歳違いの次男がいるので、何かの役に立つかも……と捨てずにいた。
 役に立つと思われたチャンスは二度来た。
 一度は、次男の社会の資料集が行方不明になった時、しかし、3年前の社会科のデータは古すぎて役に立たなかった。
二度目は、英語の教科書が、行方不明になった時。これは、教科書の出版社さえも変わっていて、何の役にもたたなかった。残念すぎる。
 結局、教科書は、一週間後くらいに、よその教室から出てきたりして、買わずに済んだのですが、一度くらいは、取っておいてよかった~と思いたかったウインク
 ところで、教科書って名前を書くので、捨てるのにいつも困ります。名前のページだけ剥がして捨てているのですが、本当はどう処分するのが正解なのだろう。
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