言葉と音で綴る 素敵LIFEダイアリー from 神戸 -33ページ目

言葉と音で綴る 素敵LIFEダイアリー from 神戸

言葉や音に思いをのせて。
心を、毎日を豊かに。

これまでピアノから学んできたことや、日々の気づきなどを綴っています。

迷いが生じるということは、


その事象が自分にとって、
ベストではないからだ。


と、最近気付きました。


カフェなどでメニューを決めるのは、
割と速い方で、


本やさんで本の購入を決めるのも、


お洋服もこれ!と思って試着してみて、
これだと確信したら
割と速く決断するので、


そう迷い性ではないと思っていましたが、
そうでもないようで、


知らず知らずのうちに、
結構あれこれ迷っているようです。


いくつかパターンがあり、


ひとつは、
自分にとって未知の世界のことの場合。


自分がその事柄に対して無知であるので、
選ぶ基準が自分の中にないために迷う。


その事柄のエキスパート、プロの方に
助言をいただいたり、


少し時間をいただいて
持ち帰らせていただいて、
自分で「研究」してから判断するとかで、
結論を導きます。


もうひとつは、


その事柄、事象が元々、
自分にとってのベストではないために、


それらが「ベストではない」ということに
気づいておらず、


延々と迷いの迷路に
はまり込んでしまっているケース。


ずっと迷い、どうしようかと悩みつつ、


決断を迫られる期日は
刻一刻と近づいてきている。


何をこんなに迷っているのだろう?
何がネックになっているのか?


うーん、うーんと散々考える。


そのとき、ようやく端と気付きました。


そう、「ベストではない」からだと。


その今、悩み迷っている事柄、事象が
すごく魅力的で、
「これだ!」と思うことであれば、


迷うことなく飛びついているはずだ。


でも、そうではないということは、


「ベストではない」からだ。


それを選ぶか選ばないかの選択権は
自分にある。


妥協して、◯◯は良いからと
特定の条件のみに甘んじて
それでよしとするか、


勇気を出して、
より「ベスト」を求めて
新たな選択をするか。


迷うということは「ベスト」ではない。


それでよしとするかしないかは、
自分次第だ。






久々にさらい始めた、


バッハの
平均律クラビーア曲集第1巻第5番。






学生時代に習った曲なのに、
楽譜を開くと
指使いも注意書きも
ほとんど書かれていなかった。


そうです、


音大に入学してしばらくまで、
先生から受けた注意や
ご指導いただいたこと、


自分で練習時に気づいたことや
気になったことなど、


自分で楽譜に書き込みをすることが
ほとんどなかったのです。


今となっては驚きで、


わたしは一体、この曲を
どうやって弾いていたのだろうか?
サッパリ分からない。


プレリュードの右手も、
滑らかに弾こうとすると難しい。


でも、


それはそれで、
ちょうどよかった。


バッハは、


曲の中で、同じテーマが
次々に転調しながら音楽が展開していく。


弾きながら、
「今、何調なのか?」を意識することが
ポイントになる。


例えば、この第1巻第5番は
D-dur  ニ長調。


例にもれなく、最初から最後まで、
ずっとニ長調のままではない。


さまざまな調に転調しながら、
この第5番の世界が繰り広げられる。


そのため、


「音符そのもの」を目で追いながら
弾くと、難しく感じる。


他の調に転調しているのに
「ニ長調だ!」と思いながら
音をさらっといると、
違和感この上ないうえ、


意識と曲が一致しないので
弾きにくく感じられるのです。


指使いの番号を追いながら弾く方が、
弾きやすく感じられます。


指使いを始めに決めておくことは、
曲の仕上がり云々だけでなく、
練習を進めるうえでも
大きく影響します。


練習を進めながら、
「やっぱりこの指使いの方がいいかな?」
と、試行錯誤するのもよいと思いますが、


指がしっかりと指使いを覚えてから
修正をかけるのはかなり大変ですので、


ある程度の段階までに
決めてしまうのが良いです。


指使い、大事です。




















随分久方ぶりに


バッハの平均律クラビーア曲集に
取り組み始めました。







すごーく久しぶりだ。


数年前に、バッハ=ブゾーニの
トッカータ、アダージョとフーガに
取り組みましたが、


こちらは、あれこれ、
いろいろな音がプラスされ、
原曲と比較すると随分ゴージャスなバッハでしたので、


純粋なバッハは、ほんと久しぶり。


本当は、いつも日常的に
弾いていることが理想的だけど、


元が「重度のバッハアレルギー」だったから、
つい敬遠しがちで。


それだからか、


学生時代に購入して
使い始めた楽譜なのに、
くたびれた感がないのはそのせい。


たまに気が向いたときに見る程度だった。


でも、30代半ばの今、


バッハへの抵抗感は、
ほとんど感じなくなった。
むしろ、ホッと落ち着きさえ感じる。


学生時代、
フーガなんて、サイアクだった。


音大受験生時代、
それまであまりバッハの勉強をしたことが
なかったこともあり、


3声のシンフォニアに
すこぶる大苦戦。


毎回レッスンに持っていって
みていただくことが、相当苦痛だった。


どうしたら、複声に聴こえるように
弾けるのか。


見た目すごく地味だけど、
繊細で細やかなバッハ向きのテクニック、
音を確かに聴き分ける耳の養成が
必至だった。


音大に入ってからも
平均律のフーガに大苦戦。


ピアノ教授法の授業で
「バッハアレルギー」という言葉を習い、


まさにわたしのことだ!と、確信。


ところが、なぜか、


恩師からはバッハゆかりの曲を
「プレゼント」されることが多かった。


それは、わたしが
キリスト教の学校出身であることと、


今思うと、比較的、
ドイツ音楽向きの弾き方をする傾向に
あったと思うのだが、


おそらく、それでバッハを
弾かせていただく機会を得たのだと思う。


当時、わたしの弾き方が
「バッハらしい奏法」「バッハらしい響き」であったかといえば、
そうではなかった気はするが、


先生は、バッハが大好きだった。


まさに、わたしが最も苦痛を伴っていた
複声=ポリフォニーの響きが、


楽しい、面白い、彩豊かな、
美しいメロディーが
同時にいくつも楽しめる。


その中から、
好きな響き、好きな音を見つけることが
とても楽しくて幸せなことだから。


と、近年、笑顔で話されていたことが
とても印象深く残っている。


と、同時に学生時代に、


「ヨーロッパ各地に散り散りバラバラに
あったバッハの曲をかき集めて曲集にしたメンデルスゾーンに感謝しなきゃ。
こんな本なんかにしてくれなくて良かったのになんて言っちゃダメなのよ?」


と、先生に言われたことも思い出した。



それでは、


指使いをきちんと決めるところから
練習をスタートしよう。





























一発目が現状であり、すべてである。


と、最近つくづく思っています。


何かと申しますと、


ピアノの練習時に、


まさに、その日初めて、

ピアノに触る瞬間から、
曲の最後の音を出すまでの、
その日一発目の演奏が、


まさに、


今の自分の、
その曲を演奏したときの仕上がりの現状である。


と、考えます。


舞台にあがるとき、


ゲネプロが本番前にあったとしても


出番がくるまでの間に
待ち時間が生じます。


それが短いか長いかの差はありますが、


なんだかんだ、
結局のところは、


一発勝負です。


練習のとき、


最初の一発目の演奏が
ボロボロだったとしても、


弾き続けているうちに
調子を取り戻してか、
それとも調子があがってくるのか、


いい感じに弾けるように
なってくることがあります。


ああ、あの一発目のボロボロの演奏は、
「弾き始め」だったからだ。


と、思えてきます。


そうすることで、


いい感じに弾けているときの、
その演奏が、


今の自分のその曲の仕上がり具合だと、
思えてくるのです。


でも、舞台に上がるなら、
人様の前で演奏するのなら、


そのように考えるのは
危険ではないかと考えます。


練習のときにできないことは、
舞台上でもできません。


できたとしたら何か奇跡かも?


そして、舞台上では、
自分のすべてが
さらされることになります。


ボロボロの演奏になるという現実は
辛いけれど、


現実は目を反らさずに
きちんと直視した方がいい。


一発目の通し練習のとき、


ボロボロの演奏になったとしても、


途中で弾くのを止めたり、
弾き直したりしない。


それは、まるで拷問のように思えるほど
苦しいものがありますが、


それが、本来の現状だと、
しかと受け止めるために。


そこを乗り越えて、
それらで発見した課題を一つひとつ
クリアしていけば、


努力が積み重なったとき、


一発目でも、


あ、いい感じかも。
弾けてきたかな?
仕上がりが見えてきたかな?


という演奏に
近づいていけるのではないかと思います。


目を反らさずに直視して、
向き合って努力した結果は、


何らかのいい形で、
自分に返ってくるはずです。


そのために、


一発目の通し練習は、


よくても悪くても、
目に汗が入っても、
鍵盤にゴミが落ちていて気になっても、
(準備して確認してから弾き始めよう)


何が何でも最後まで弾き通すこと。



わたしの練習時のルールです。


一発目、大事です。































猛モーションをかけて、


追い込み練習に入ったピアノ。


当日1ヶ月前からは、


この時期だけは割り切って、


平日も仕事から帰ってきたら、
どんなにクタクタでも、
できる限り必ずピアノに向かう


と決めている。


なので、正直なところ、


この時期だけは、
仕事中にパワーを使い切らして
しまわないよう、


さりげなく
脳の使用パワー、体力を
セーブしている。


また、近頃は、


集中力は続いても、
体力が続かないと、
ピアノを弾いていられなくなる。


ショパンのスケルツォだとか
バラードを弾くと、
それが顕著に分かる。


体力の消耗がすこぶる激しい。


最後まで、馬力が続かないのだ。


そんなわけで、
メインの練習はドビュッシーだけれど、


1日のパワーの配分を考えながら
日中を過ごし、


夜には


火事場の馬鹿力だとか、
なんとかかんとか、


われながら、
必死になって練習している。


そんななか、ふと思い出したこと。


それは、


「ピアノの鍵盤に“かじりつき”で弾くのはどうか。見た目にも“余裕”が必要ではないか。」


と、ご指導を受けたことがある。


必死の形相で、
いかにも難しいことを
こんなに大変にやってます!


というふうな感じで弾くのは、
確かに、いかがなものか・・・。


難しいことを、
サラリとした表情で、
あたかも簡単にやってのけている


そんな姿は、確かにカッコイイ。


それでも、わたしは思う。


必死の形相でも、


真剣に、ひたむきに、一生懸命に、
何かに取り組んでいる姿は素敵だと。


(プロのコンサートピアニストが
必死の形相でステージに立っていたら
確かに夢壊れるかも…。
迫力とか、曲に感情移入して険しい表情とかは全然ありだと思うけど…。)


ちなみに、


ご指導を受けた“かじりつき姿”とは、



腰を前に折り曲げ気味に、
鍵盤に顔を近づけて“かじりついて”弾く
のはいかがなものか。


ということでしたが、


それを意識してやめようと、
背をピンと伸ばして弾くことを
しだすようにしてから、


それまでの間、
その曲の、そこの部分を、
かじりつき姿で弾き続けていたため、


体の姿勢を変えたことで、
バランスが変わって、
逆に弾けなくなってしまった。


そんなこともあり、


見た目がどうのこうのというのは、
意識的に考えず、


「弾いていたら自然にそうなる姿形」


で弾くように心がけている。


基本は腰立てて、背中を真っ直ぐ上に


という、良い姿勢で弾くことだが、


指先に神経尖らせて細やかな作業を
しなければならないときなど、


元々超不器用なわたしには
背筋を伸ばしたままの姿勢では、
とてもできない。


上記記載の、
真剣に、一生懸命に、ひたむきに
何かに取り組んでいるときの姿を見て、


悪く思う人は、そういないのではないかと思う。


そう考えれば、
“かじりつき”でも、いいのではないかと。


とりあえず、まずは練習をしよう。