言葉と音で綴る 素敵LIFEダイアリー from 神戸 -18ページ目
そろそろ、
一年の成果を披露する日が
近づいているので、
スタインウェイ&サンズのピアノがある
練習室をお借りして、
練習してきました。
ピアノは、
B-211かなと思っていましたが、
D-274、
フルコンサイズのピアノでした。
2時間練習させていただいて、
いろいろな発見がありました。
フルコンサイズの大きなピアノを弾く、
というよりは、
「鳴らす」という表現の方が、
わたしには合っているかも知れません。
大きなピアノを「鳴らす」には、
ちょこちょこと弾くだけでは、
「鳴らない」な、と。
それぞれのピアノの個体にもよるのだと
思いますが、
少なくとも、
今日出会ったピアノを
しっかり鳴らそうと思ったら、
体のどこの部分をどう使うのかを
しっかり考えて、
また、
杭を打ち込んでいくかのように、
鍵盤の深さやを感じながら、
しっかりと奥まで弾かないと、
上辺だけの、
何が弾きたいのか、
さっぱり分からないような
音楽になってしまうなと、思いました。
広い会場で、多勢の人を前に
話をするときに、
言葉や話したいことが伝わるようにと、
いつもより少しゆっくりめに、
1語1語を
しっかりと丁寧に話すように、
ピアノも、
「表現したいこと」を
ピアノでしっかり表現するには、
音をきちんと咀嚼して、
滑舌よく話さないといけないんだなと、
思いました。
練習をしながら、
自分のピアノは、
こうして、
いろいろなピアノにも、
育ててもらってもらっているのだと、
思います。
ピアノから「教えてもらうこと」も、
多いなと。
また、
広いホールや響きのよい会場で
弾くことも、
学び、得られることがたくさんあります。
そう思うと、
高校時代、
学年でただ唯一の
音大ピアノ専攻志望だったわたしは、
1000人近く収容できる
広い講堂で、
しかもヤマハのフルコンで
たくさん練習させていただいたので、
非常に恵まれていたなぁと、
今、改めて思います。
良いピアノ、良い響きの中に
身を置くと、
音づくりに意欲が湧いて、
もっともっとと、
夢中になれる。
ピアノを弾くのが、
楽しくて楽しくて。
ピアノにも、
「鍛えて」もらい、
「育てて」もらっている。
幸せな、楽しい、
夢中になれた、ひとときでした。
確か、小学校4年生のときだったと思う。
祖母が1冊の本を
プレゼントしてくれた。
それは、
クララ・シューマンの、
漫画の伝記本。
祖母曰く、
「すごい人やってんで。」
祖母に本をプレゼントしてもらって、
初めて「出会った」。
きれいな絵に惹かれて、
本を読み始めた小学生の私は、
それから、何度も繰り返し
この本を読んだ。
クララ・シューマンといえば、
当時、ヨーロッパで活躍し、
実力も人気もあった女流ピアニストであり、
作曲家ロベルト・シューマンの妻で、
八人の子どもの母親でもあった。
八人も育てながら、
その合間にピアノの練習をして、
演奏会を開く。
さらに、夫が病に倒れたあとは、
家計を支えていかなければならないという
重圧。
その大変さは
想像を絶するものがある。
それらを成し遂げられたのは、
元々、ピアノの腕があったからではと、
思うものの、
やはり、
「なにがなんでも」という、
信念と情熱があったからではないかと
思う。
「その気」があるのか、ないのか。
やるか、やらないか。
そして、
それらの元となる「原動力」。
夫の曲を、1人でも多くの人に
聴いてもらいたい、知ってもらいたい。
この素晴らしい音楽を。
やっぱり、愛のチカラは大きい。
さて、
ピアノ生活の中で散々苦しめられている
「暗譜」ですが、
この暗譜をし始めたのは、
クララ・シューマンと言われています。
すごい人だ、と思うけれど、
ピアノならではの、
この「慣習」をつくったことについては、
何度、恨めしく思ったことか、
数え切れず。
でも、
ロベルトとクララが、
クララの父親に結婚を反対されて、
離ればなれになっていた頃に
作曲された幻想曲を練習しながら、
ピアノを弾くクララの姿が
チラッと、脳裏をよぎる。
やっぱり、楽譜を見ずに弾きながら、
「ロベルトー!」って、
叫びたい気がするなぁ、と。
本来は、ロベルト視線で、
クララのことを思いながら
弾く曲なのだろうけど、
私は、クララ視線で弾きたいなぁ。
等々思いながら、
ふと、小学生のときに読んだ
クララ・シューマンの伝記本のことを
思い出した。
そして、あのとき、
祖母が「すごい人やってんで」と
言っていたことを。
さぁ、あともう少し。
がんばろう!
よく思うのですが、
社会人になってからの方が、
よく勉強していると思います。
日々の宿題だとか、
定期考査対策のための試験勉強とか、
予め決まっているカリキュラムとか、
量的には学生時代の方が
多かったかも知れないけれど、
それでも、
「今」の方が、
「勉強している」気がするのです。
仕事をしていくうえで必要と感じたり、
仕事がどうの、とかは関係なく、
興味を持ったことがきっかけで、
学びたいと思ったことを
自ら進んで勉強する。
これは、どうやって算出するのかな?
これは、どういう意味かな?
学びを進めていきながら、
頭に浮かんだ疑問を
一つひとつ解決していく。
ああ、これは、
こういう意味やったのか!
という「発見」が、楽しい。
知的好奇心が
どんどん溢れ出てくる。
さらに、
これらの学びを活かす機会が
いつの日か来たら・・・と、
想像しながら、
ノートにペンを走らせています。
誰にだって、
挑戦する権利は
あるのではないのか?
昨年の夏から取り組んでいる
シューマンの幻想曲。
第1楽章は、まだ道半ばであるものの、
第2楽章も始めてみた。
プロ泣かせと言われる
難曲中の難曲、第2楽章。
はじめの1行目だけでも
ひと苦労。
左の幅広い和音の距離感が
なかなか掴めない。
何度も何度もやり直し、
さらい直す。
何度も何度も。
なかなか上手くいかない。
だけど、
何度もトライしたくなる。
難しいから、
何度も何度も
トライしたくなる。
難しいけど、面白い。
難しいけど、夢中になれる。
これが、
挑戦すると決めた者に与えられる
醍醐味なのだろうと思う。
少しずつでも、
徐々に前に進んでいっていることも、
また、嬉しくなって、
もっともっとと、思う。
1つひとつ、
目の前の壁、頭の上の天井を
突き破っていってみたい。
仕事の場面で、
特に、組織の中で、
ある一定期間続けてきたことを
やめる、
あるいは、
方法を変えるというのは、
結構なエネルギーを要するように
感じる。
そもそもヒトは、
変化を恐れる生き物で
「ホメオスタシス」が生じる。
「完全にやめる」場合でも、
完全にやめたあとは、
もう、それらに関することは
何もしなくて済むけれど、
「完全にやめる」までに、
いろいろとしなければならないことが
あったりして、
「一大事」になることもある。
方法を変える場合は、
更に大きなエネルギーを要する。
今、「その方法」を採用しているのには、
過去の実績を踏まえ、
今採用している「その方法が良い」から、
今、「その方法」で行われている。
という経緯があったりする。
でも、「その方法」すらも、
実は苦になっているとしたら、
やはり、いつまでも
「その方法」で続けていくわけには
いかない。
ここで「変革」をしなければ、
結局また、
ヒーヒー言いながら、
これまでと同じ道を辿ることになるのだ。
しかし、それだけ苦が生じるだけあって、
新たに、今の方法よりも良い方法を
編み出すのも、
実は大きなエネルギーを要する。
無駄を省き、省力化を図り、
かつ、
クオリティは維持あるいは向上させるには、
どうしたらよいのか。
これを考えるのに、
エネルギーがいるし、
また、それらの新たな方法を
実施するにあたり、
新たに「道」をつくるのために
エネルギーが必要だ。
近い将来、
「ああ、前よりは楽になったのに、
いい感じに仕事が進むようになったな」と、
自分も周囲も
実感できるようにするために。

