4回生の古荘です。

「書くことないだろ」と言い続け当日までブログを出し渋ってしまったこと、広報の皆さんにお詫びします。ただ、自分の番にも関わらずブログも自己紹介も出さずいるT橋もいるので私は悪くない。そうだろ。

おそらく引退ブログを書くことは無いので、これが最後のブログになるのかな。感無量というところでしょうか。

一部活に関するブログなんて誰が読むん?そう思っていた頃があります。でも神大のマネブロは日本一読まれているフットサル部のブログだそうですし、ありがたいことに私の書いたものに反応してくださった方も多くいます。自分達に思いのほか影響力があるという事実には喜びと同時に些か恐怖じみた感情まで抱いてしまうことすらあります。

文字に残すことの意味ってなんだろう。よくそう考える。自分の言葉で誰かに少しでも影響を与えるため?それとも思いの丈を綴る自己満足のため?備忘録?自分の考え・研究成果を後世へ語り継ごうとする熱心な方々も大学生の周りには多くいることを忘れてはいけないだろうか。とかく、"文字に残す"という人間にのみ許される高尚な行為は古代から現代まで続く一種の伝統だと言える。
 
昔の人は文字に書いて残すにも"動機"が必要であったらしい。古代においては読み書き能力は特別な個人にだけ与えられる技術であり、読み書きができるだけでヒエラルキーの上位に立つことができた。漢文古文にしても、自身の湧き立つ感情を記す手段は少なく、あくまで公的手段としての記録が主であったことは歴史でも古文にしても学校で勉強したことでしょうか。

日本で個人の感情を散文として残すようになった「記」の始まりは都良香の「富士山記」であると言われている。これは要約すると

「富士山ってめっちゃでかくね?
どんだけ歩いてもずっと富士山の麓におる気がする…
たぶん仙人でも住んどるんやろ。
昔は山頂から浮き上がっていく白衣の美女がおったって話やわ。」

まあこんなところだ。
読めば分かるが所謂伝承の類に違いはなく、やはり個人の感情を表出するのは憚られたことは想像に難く無い。

では現代人はどうか?
3歳でアンパンマンやらプリキュアやらの機械に水でお絵描きをし、今に至るまでTwitterでそんな物に誰が興味を抱くのかと思うほど個人の生活を綴る。メディアと紙とペンに溢れる現代人に文字を書かない古代人の生活なぞ想像する方が難しいだろう。

現代人には"書く"ことに動機は必要ないのだ。では現代で「書きたい」、そう思うのはどんな時か。普段の生活で中々思うことは無いだろう。一日生きていて、ベッドから起きたこと、学校へ行ったこと、友達と話したこと、夜べにあかりをつけて本を読んだこと。日常の中に文字に残したいという動機は生まれづらい。しかし人生はそこまでつまらないものでもないだろう。朝早く起きて大学に行ったら休講だったとか、やっと好きな子と2人でデートに行けたとか、部活の大切な試合が目の前に迫っているとか。喜怒哀楽を呼び起こす何らかを人は記録に残しておきたいと思うものではなかろうか。文字に残すことで、その人なりの意味を見出し、記憶に残す。

ブログは部活や試合に対する熱い想いを記す(べき?)ものであるし、エッセイにしても自身の生き方、価値観を普段の出来事から面白可笑しく書く。簡単に自分の感情を現すことのできる時代に生まれたこと、感謝するべきだろうか。

現代に動機を持って書かれる文章は概して何らか意味があるものだと思う。何者でも無い、ただの大学生が試合・部活に対する想いを綴るこのブログたちもその類だ。

部員それぞれが熱い動機をもって書いたこのブログを是非もう一度1から読んでいただければと思います。高い壁に挑む部員たちの想いを少しでも感じてもらえたら。それが私がこのブログを記す動機になると思います。



#91 古荘景悟