罪と悔い改めの本質的な重要性

1. サタンの「合法的」な働き

説教の核心は、サタンが信者を攻撃する際、神の許しと法則に基づいて合法的に働く場合があるという点です。多くのクリスチャンは、自分が神の子になったからサタンの攻撃とは無縁だと考えがちですが、それは無知であると警告されています。

神は義であり、公正に世界を統治されるため、人が罪を犯した結果として、サタンがその人の弱い部分や罪のある部分を攻撃する許可を与えることがあります。これは、悪霊の攻撃から逃れるためには、単に祈りや追い出しの言葉を使うだけでなく、神の法則を理解する必要があることを意味します。

2. ヨブ記とペテロの事例からの教訓

  • ヨブ記の真実: ヨブが「無垢で正しい」とされたのは、世の人々と比較して正しいという相対的な意味であり、絶対的な罪がないわけではありませんでした。神がサタンにヨブを試すことを許したのは、ヨブにも気づいていない罪や欠点があったからです。ヨブの試練は、彼が自身の罪を認め、心から悔い改めるまで終わりませんでした。悔い改めた後、神は彼の失ったものの2倍を祝福として回復させました。

  • ペテロのふるい: イエス・キリストの弟子であるペテロでさえ、サタンが彼を「麦のようにふるいにかける」ことを神に求め、それが許されました。その結果、ペテロはイエス様を呪いの言葉を口にさえして、否認するという、信仰の危機に陥りました。この事例は、熱心な信者であっても、心に正しいでない部分があれば、サタンの合法的かつ許された攻撃を受ける可能性があることを示しています

3. 悪霊の追い出しと聖霊の働き

この法則を理解しないまま、いくら熱心に祈っても、悪霊の追い出しはできません。

  • 罪は壁: 罪は、神と人との間を隔てる**「壁」**となります。神の助けの手は長く、耳は遠くありませんが、この壁があるために、神の力は届かず、祈りも聞き届けられません。

  • 悔い改めが先決: 悪霊のいる状態は、腐った食べ物(罪)にハエ(悪霊)が群がっているようなものです。ハエを追い払っても、腐った食べ物が残っていればハエは戻ってきます。悪霊の追い出しを成功させ、聖霊の力に満たされるためには、まず徹底的に自分の罪を探し出し、悔い改めること(壁を取り払うこと)が先決です。

まとめ

信仰生活における困難や問題に直面したとき、闇雲に救いを求めるのではなく、まず自己点検し、神の前に正しい信仰に立ち返ることが、勝利への道である。悔い改めこそが、聖霊の働きと神の恵みを経験するための基本である。

神様の望まれる信仰生活とは、単に静かに待つ受動的なものではなく、絶え間ない霊的な戦いを通じて実現される動的な勝利の人生である。

 

1. 霊的戦いの本質

 

キリストがこの世に来られた第一の目的は、人類を闇の力から解放し、その支配の働きを根本から打ち砕くことでした。

  • 現状認識: 人間は生まれながらにして、この闇の力による縛り妨害の中に置かれています。この支配が解かれない限り、真に神様のもとへ立ち返ることも、神のメッセージを人々に伝える(伝道)こともできません。

  • 神の国の到来: 悪の力が追い出され、神の聖なる力が満たされるとき、私たちのうちにも、また周りの世界にも、神の統治(神の国)が現実のものとして現れ始めます。


 

2. 弟子としての道

 

キリストの教えを生きる者、すなわち弟子となることは、単に言葉や形式の上で信じることではありません。

  • 積極的な行動: それは、キリストがされたように、自らこの霊的な戦いに立ち上がり、悪の勢力を打ち破る戦士となることを意味します。

  • 敵への対峙: この戦いに参加せず、傍観したり、闇の力と手を組んで生きる者は、結果としてキリストの働きに反対し、人々を散らす側になってしまうと警告されています。


 

3. 勝利の条件

 

この戦いに勝ち続けるためには、特定の実践的な訓練が不可欠です。

  • 集中と断食: 勝利を得るためには、ひたすら神に集中する祈りと、肉的な欲求を抑える断食が必須の手段とされています。これらは、闇の勢力が特に抵抗し、その勢力を追い出すために必要な力強い権威を伴うからです。

  • 継続的な警戒: 霊的な戦いは一時的なイベントではなく、私たちがこの世を生きる限り、毎日続けるべき継続的な努力です。過去の経験や形式的な習慣に頼るのではなく、日々強くなることを目指さなければなりません。


 

4. 信仰の実践がもたらす変化

 

信仰生活を真剣に実践し、この霊的な戦いに勝利する者は、個人的な体験を通して神の力を知ります。

  • 解放と回復: 集中した祈りによって、病や身体の不調といった肉体の縛りから解放されたり、どうにもならないと諦めていた問題が解決したりする奇跡的な回復が起こり得ます。

  • 真の幸福: 神の御心に従って生きることは、魂の最も深い部分にある生きがいと幸福につながります逆に、その体験のない状態は、悪の力に縛られたままの空虚な状態である。

形だけの信仰から抜け出し、本質的な力真の自由を得るために、日々の生活の中で積極的に霊的な戦いに立ち上がるよう頑張るべきです。

感謝がどれほど大切かを悟らせる夢を見ました。


寝る前に「主よ、イエス様は私をどのように見ておられるのでしょうか」と祈って眠りについた時の夢である。

わたしは東京EMCの神学校と先生たちを前にして、説教台に立っていた。

言葉を開く前に、まず神様への感謝を告げていた。「ここまで来られたのは、ただ主の恵みです。」と口にすると、胸の奥がいっぱいになり、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえながら語っていた。自分の霊が、そのまま主への感謝を叫んでいるように感じた。

次に沈牧師へ感謝を伝えていた。「ここまで来られたのは、先生が私を忍耐深く導いてくださったおかげです」と語ると、また心の底から感謝の涙が込み上げていた。

続いてわたしに傷つけた人達へも感謝を述べようとたが、過去の記憶があり、一瞬ためらったが、その人たちの良さだけだけを思い浮かべ、否定的な思いは一切捨て、ただ心を尽くして感謝を告げた。その時も涙は温かく流れていた。(実際、悪い思いと常に戦ってる日々です。)

説教台の下には、神戸で働く信徒たちが座っていた。

現実には信仰の面で弱く、問題もある者たちで、わたしは常に悩んで苦しんでる事が多いけど、夢の中のわたしは彼らの良い面だけを見つめ、彼らを送ってくださった主に深く感謝していた。(現実でも、信者のことで、主によく感謝を言ってます。)

話し終えて東京EMCの神学校の前に立つと、沈先生が続けて語った。
「この牧師の性格は、本当に素晴らしい。人の悪いところを見ようとせず、判断せず、表に出さず、良いところだけを見ようとする。神様への感謝だけでなく、人への感謝も常に忘れない。悪い点に心を奪われず、良い点だけを大切にし、感謝をもって受け取る――その心の広さ、優しさ、善良さは、まさに人の模範だ」と韓国語で語られた。私は日本語で、沈先生は韓国語で話しながら、皆に「このような心を見習いなさい」と励ましていた。

目を覚ました時、胸に強く残ったのは、
感謝がどれほど尊く、どれほど主に喜ばれ、認められて祝福される事かを強く悟るようになりました。

主から感謝する心を認められたので、もう一つアップされた祝福を期待しています。

これから与えられ、証できる恵みと祝福にわくわくして、年末や新年が楽しみです。

 

愛する皆さんも、一つ一つ認められる事を忍耐強く継続して、救い主イエス様から、ボーナスを受ける年末、新年になる事を願います。


* 感謝の意を表す時は、

言葉だけではなく、お金がかかる感謝を表すのが信仰でしょう。



皆が異言ができることはないですが、

異言の祈りを禁ずることは

神が立てる教会の組織を否定する、

聖霊の働きを拒否することなので、注意すべきです。

 

コリント12章

3そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。

4霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。

5務は種々あるが、主は同じである。

6働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。

7各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである

8すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言

9またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、 10またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほ

かの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。

11すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである

 

28神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです

 

現にも、使徒のような働きや預言する牧師や使命者、、、などいろんな賜物を持って、働いている方たちが多くいます。神の御心のままに祈らせられている、異言の祈りは、特に執り成し祈りチームには、絶対必要な賜物であり、霊的戦いには勝利する武器でも言えます。

 

1. 弟子になること(弟子化)の定義

 

  • 師匠の教えの完全な実行者になること

    弟子というのは師匠がやったことをそのまま教わってその通りにしたものは弟子なんです。

    • イエス様の弟子になることは、イエス様が教え、行い、約束された全てのことを学び、その通りに実行する者になることを意味します。

  • 神の子の身分の完全な回復

    • 人間は元々、「神の姿に」造られ、「神々(神の子)」と呼ばれるべき存在でした。

    • しかし罪によってその身分を失いました。「弟子になる」ということは、イエス様のように生きることを通して、失っていた神の子の身分を完全に回復し、神の性質を持つ存在に立ち返ること(真的な神々のように)を意味します。

  • 刈り入れまで責任を持つこと

    • 「伝道」を種を蒔く行為とするならば、「弟子化」は刈り入れまで、つまり蒔いた種が実を結ぶまで、徹底して世話をすることを意味します。

    • イエス様を信じさせた後も、その人がイエス様の教えを守り、罪から離れ、命の実を結ぶように導く必要があります。

 

2. 弟子になるための具体的なステップ

 

弟子となるためには、以下の行動が不可欠であると説かれています。

ステップ 聖書の教え(根拠) 説明
教えを全て聞く マタイ 28:20a イエス様が命じておかれたことを全て教わる必要があります。
教えを守る マタイ 28:20b / ヨハネ 15:7-8 教わった言葉(イエスの約束)を「ことごとく守るようにしなさい」とあります。守らなければ、真の弟子にはなれません。
実を結ぶ ヨハネ 15:8 イエス様の言葉を守り、その通りに生きると、神様が必ずを結ばせてくださいます。この実は、罪から離れて神の子になる「命の実」であり、信仰の成長の結果です。
聖霊の力を受ける 使徒 1:4-8 弟子化は人の力だけでは不可能であるため、聖霊の権威と力をしっかり受けてから、その力を頼りに弟子化の働きに出るべきです。

 

3. 弟子になった結果(恵み)

 

真の弟子になると、以下のような結果がもたらされます。

  • 神の栄光:実を結ぶことによって、神様が栄光を受けられます。

  • 神の祝福:神様は約束の祝福を与えざるを得なくなります(マタイ6章32節)。

  • 勝利する教会:弟子となった一人ひとりがイエス様のような強さに成長するため、サタンの勢力が決して潰せない、強力な教会(群れ)となります。

  • 終末の備え:これから来るどんな厳しい試練(コロナよりもっとひどいもの)が来ても、命をかけて神から離れない、勝利する信仰を持つことができます。

「弟子になること」とは、イエス様が示した完璧な神の子の生き方を学び、実践し、その結果、神の子の身分と力を完全に回復するプロセス全体であると説いているのです。

ローマ1:21
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝することもしませんでした。

かえって、その思いはむなしくなり、心は暗くなりました。

 

ここに描かれている順番は、
神を認めない
→ 感謝しない
→ 思いが空虚になる
→ 心が暗くなる
→ 偶像やさまざまな罪(同性愛の罪も)が入り込む
→ 最終的には裁きの現実に行き着く

 

ローマ1章17-32節

世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。 

なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。 

 

それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。 

 

あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、 無知、不誠実、無情、無慈悲です。 

 

彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。'

 

 

入院すると、二度と家に戻れなくなる人がいる。

 

入り口はあっても、戻る出口はない!

人は母の胎から生まれ、この“世”という入口に入ってきます。
そしてそれぞれに与えられた寿命を終えると、死という入口へと入っていきます。

死の世界から再びこの世へ戻る出口はありません。

 

人の歩みはいつか終わりますが、神に受け入れられた者には、

そこで終わりではなく、神が備えられた楽園と天の国が開かれています。

だから、私たちはこの世を去る日を恐れの時ではなく、希望の扉として受け止めます。

ゆえに、地上で生きる今こそ、悔い改めて、信仰で主イエスのみ言葉を守り

聖霊の導きの下で、父なる神に従うことが、

真の意味での人の救いと癒やしと祝福になります。

 

感謝は信仰の根本

神様は感謝を捧げることを命令としておられます。これは守らなければならない掟であり、信仰の根本的な本質に直結する。

 

人間が神によって造られた目的は、神の業と栄光を称えるためであり、神の御前に出る時は感謝を捧げ、神を讃美しながら出るべきです。

 

真の感謝と偽りの感謝

讃美は口先だけのものではなく、感謝を捧げながら行うべきであり、その感謝も心からのものでなければなりません。

 

口先だけの感謝や讃美は偽りであり、神様が求めるものではありません。

 

富と罪の問題

アダムとエバが犯した罪は、**富(物質)**に心を奪われ、神の掟を破ったことにあります。イエス様も人の心は常に富にあると教えています。

 

この問題を解決できないと、神様との関係が断たれた状態のままであり、神様の約束された救いや祝福を受け取ることができません。

 

収穫感謝祭と信仰の証明

神様の前に出ていく第一の条件は、心から感謝の讃美を捧げることです。

 

収入(収穫)が入った時に、それを神様に捧げることによって、本当に信仰がどうであるかを示すことになります。これが収穫感謝祭の神聖的な定義です。

感謝ができない人には信仰もないと言えます。

 

イスラエルの歴史を例に

神様から祝福を受け、世界に影響力を持つイスラエル民族は、歴史を通して神様にささげた感謝の歴史があるため、今でも特別な守りを受けている。

ルカによる福音書 12:16-21

それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 

やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神

の前に豊かにならない者はこのとおりだ。

 

マタイによる福音書 13:40-43,47-50

毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 人の子(イエス)は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある

者は聞きなさい。

 

また、天の国は次のようにたとえられる。

網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。

網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、

良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

 

 

ローマ14:10-12

それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。

また、なぜ兄弟(信仰の仲間)を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。 こう書いてあります。 

「主は言われる。 『わたしは生きている。 すべてのひざはわたしの前にかがみ、 すべての舌が神をほめたたえる』と。」 

それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです

 

ヘブライ人への手紙 4:12-13

というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。 

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

 

ヨハネの黙示録 20:11-15

わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。

幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。

神の人が優先するべき事は、悔い改めで生まれ変わって、自我を砕きながら、神の国と義を求めて、サタンとの戦いで、聖霊の力、祈りと断食をもって勝利し、福音を伝えながら、聖霊の実を結んで聖化すること

ローマ人への手紙 13章1〜2節

すべての人は、上に立つ権威に従うべきです。権威は神によらないものはなく、存在する権威はすべて神によって立てられたのです。したがって、権威に逆らう者は神の定めに逆らうことになり、逆らう者は自分の身に裁きを招くのです。

→ パウロがこの言葉を書いた当時、ローマ帝国は決して正しい政府ではありませんでした。
それでも彼は「権威を立てられたのは神である」と語ります。
つまり、人間の権力そのものではなく、その背後におられる神を意識して従うことを意味しています。


第二テモテへの手紙 2章24〜25節

主のしもべは争ってはならず、すべての人に親切で、教えることができ、忍耐強く、反対する者を優しく諭さなければなりません。


ヨハネによる福音書 18章36節

イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではない。」


ローマ人への手紙 12章17〜18節

誰に対しても悪をもって悪に報いず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できる限り、あなたがたはすべての人と平和に過ごしなさい。


ヤコブの手紙 1章20節

人の怒りは神の義を実現しないからです。


第一ペテロの手紙 2章13〜15節

主のために、人の立てたあらゆる制度に従いなさい。たとえそれが上に立つ王であろうと、あるいは王によって遣わされた総督であろうと。あなたがたの善い行いによって、愚かな者たちの無知を沈黙させるためです。

→ 「主のために従う」とは、権力者に盲目的に服従することではなく、神に目を向けた従順の姿勢です。
たとえ不正な権力であっても、信仰者の善い行いが最終的に神の義を証しします。


ヘブル人への手紙 13章17節

あなたがたを導く人々に従い、服従しなさい。彼らは、あなたがたのたましいのために、責任をもって見守っているのです。

→ 教会の中でも、神の秩序を守る従順は霊的な平安と秩序の基礎です。
権威は支配や抑圧のためではなく、守り導くために与えられた構造です。


このように聖書は、「権威への従順」を通して私たちが神の主権を認め、信仰の姿勢を保つことを教えています。
それは人間への服従ではなく、神への信頼と秩序への尊重なのです。