私の記憶に残っている「最初に美しいと思った記憶」を遡って行くと二つの景色が想い浮かぶ。



一つは、晴れた日の穏やかな瀬戸内海に、太陽の光がキラキラと輝いている光景。


そしてもう一つは、晴れた春の日に(たぶん)ベビーカーの中から眺めたピンクの桜吹雪が舞う景色。



それがいくつの頃だったか、どちらが先だったのかまでは覚えていないけれど、どちらの景色を見た瞬間も共通して沸き上がって来た想いがある。


穏やかな瀬戸内海に太陽の光が反射して、キラキラと輝くその光を見た瞬間、
「あの光になりたい!あの光の中に入りたい!」


心地良い春風とその中に舞うピンクの桜吹雪に包まれながら、
「このサクラの花びらみたいにヒラヒラ舞ってみたい。」



その頃私がどれくらい言葉を理解できたか、さすがに覚えていないけれど、
感覚的に感じた想いは記憶の中に残っていて、それを言葉にしたらこんな想いだったように思う。


その癖は、大人になっても抜けていないようで、
親友との京都旅行で青紅葉が風に吹かれてひらひらと揺れる様子を見ていたら、自然と新緑ダンスを踊っていて、友人に大爆笑された経験もある。

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先日の、天才数学者の森田真生さんの講義を聞かせて頂いた時、
数学者の講義なのに(なのにというのも変だけれど)「情緒」について教えて頂いた。


森田さんは、岡潔さんがより難しい数学の問いと対峙していた頃、
芭蕉にみる「情緒」から、
自らの境地を拡げることで、分からないことが分かってくることの意味についてお話されていた。


「情緒」と聞くと、少し難しそうな感じもするけれど、
それは言い換えれば「自他通い合う心」を持つという意味。


芭蕉の句の中には、ただ眼で見て観念を描写するのではなく、
眼で見た描写(例えば自然)に心を通い合わせる。


自分という概念を飛び越えて、自然の中や自分ではないところに心が散りばめられているかのような感覚。


自他共に心が通い合えば、そこに境界線はなくなって、
物語のような壮大な「自分観」や「自然観」を持つことができる。

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このお話を聞いていた時に思い出したのは、私が「美しいと思った最初の記憶」のこと。


あの頃の小さい自分は、確固たる強い自分がなかったかわりに、
「自分は自然だったかもしれない」という境界線のない自分観と自然観を持っていたような気がする。


自我を持って成長していくということは大切なことだけれど、


自分自身が「自分」というものを狭めてしまうことなく、
穏やかで優しくて豊かな「自分観」や「自然観」を持ちたいな、と思った京都での学び。


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