民宿『梅鶯荘』のホームページを作ったりと、
何かと“棡原”との付き合いが増えてきたので、
歴史やら何やらの情報を仕入れようと努めてみたものの、
ネット上では欲しい物が見つからない。
図書館に行った。
山梨県関連書籍の棚を見ると、
以前お世話になった『上野原町史』があったので、
内容をチェックしてみたが、
特に棡原に関する必要な情報は載ってない。
端から背表紙を見ていくと、
西原(さいはら)関連の文献はたくさんあるものの、
棡原の資料はほとんどみつからない。
図書館司書の方に聞いてみた。
「すいません。
棡原村誌みたいな本はありませんか?」
オイラの見ていた棚に来て一生懸命探しているが見つからない。
「ちょっとお待ちください」
と言って奥の院?に。
しばらくすると1冊のハードカバーを持ってきた。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20140903/18/kobaz3/57/b6/j/t02200308_0500070013055440102.jpg?caw=800)
「それなら持ってます」
そう、先日、梅鶯荘でお借りしたばかりなんだ。
(この古書!の内容に関しては別ブログに掲載予定)
「他にはありませんねぇ」
「解りました。近い物を探してみます」
:
「よしっ、北都留郡の資料を探そう」
そう、北都留郡とは、合併する前の上野原町が属していた郡で、
古くは大月の集落なども含まれており、
現在は、小菅(こすげ)村と丹波山(たばやま)村の2村のみが残っている。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20140903/18/kobaz3/42/8f/j/o0287037613055411908.jpg?caw=800)
ちなみに、上野原が平成の大合併で一緒になった旧秋山村は、
南都留郡に属していた。
で、見つけたのが『北都留郡誌』なんだが、
厚さ5cmほどあり…
『北都留郡誌』は、郡制廃止にあたり、大正14年、
山梨県北都留郡郡誌編纂会によってつくられたものです。
内容は、大正時代終りまでの、
町村別の住民の生活のあらゆる分野を記録したもので、
町村別の歴史、地理をはじめ、
農業、養蚕、特産物、商業、工業、林業などの産業・川や山、
地形や面積、田畑宅地、山林原野などの土地の状態
寺院、神社・名所旧跡・教育や農会、青年団、婦人会などの組織
年中行事や冠婚葬祭の習慣、ことば使いなどがくわしく述べられています。
との事。(内容説明文がネット上に有った)
なんと、大正14年、すなわち西暦1925年の上梓だから、
漢字は旧字だし、旧かな使いに、完全な文語体だ。
そう、古書なんだよ。
でもこれしかないから、とりあえず開いて見た。
と、目次のすぐ後の出典などが記された所に、なんと…!
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20140903/18/kobaz3/fd/96/j/o0171023613055446755.jpg?caw=800)
最初の行は“山梨県庁”で、
次の行が“岐阜県益田郡役所”となっているではないか!
これ、現在の岐阜県下呂市の事で、
そう、オイラの生まれ育った場所だよ。
もう一つここにもあった。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20140903/18/kobaz3/00/00/j/o0204026113055446756.jpg?caw=800)
そう、“岐阜県益田郡誌”から引用されていると、
引用先のトップに記されているのだ。
ちなみに、その下は“広島県佐伯郡誌”である。
岐阜県と山梨県は間に長野県を挟んでいるから、
直接の結びつきはないような気がするが、
さすがに引用されている文を探す事はしなかった。
(きっと1週間以上かかるだろう)
それにしても、
単純に消去法で選択した転居先だったのに、
何だか知らないが、我が故郷と大いなる関係があるようだ。
── 閑話休題 ──
目的の物は見つからなかったが、
せっかく図書館まで行ったので、
お土産情報を載せておこう。
まずは“石高(こくだか:税金みたいなもの)”の一覧表があり、
そこには寛永元年(1624年)と、嘉永六年(1853年)の比較がされているが、
そこに一つの発見が有った。
それは、
“棡原”は寛永元年には“譲原”と書かれ、
嘉永六年には“楪原”と書かれている。
“楪”は植物の“ユズリハ”
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20140903/19/kobaz3/e6/06/j/t02200165_0448033613055473343.jpg?caw=800)
の事だが、発音はやはり「ゆずりはら」だったのかもしれない。
また、棡原の隣の集落である“西原(さいはら)”は、
寛永元年には“才ヶ原”と書かれていたようだ。(読みは解らない)
もう一つ、興味を引くものがあった。
それは、地名の由来である。
まずは、“上野原”についての記述を、
漢字だけは現代の物を利用せざるを得ないが、
言葉使いそのままに記してみよう。
往古より上野原と称し単村たり、
鶴川沿岸なる今の大鶴村鶴川辺に比し地勢高く
且原野をなせるを以て上野原と称ふるに至れりともいひ、
又地名上野と称する所ありて其上野の原なるより斯く名ありしともいへり。
と、ここまででギブアップ。
読みを調べたり、旧字を新字に直したり、
もう大変。もうイヤっ。
とはいえ、まだ棡原をやっつけなくっちゃ。
棡原村の部落名。
尾続(おずく):尾続山脈の尾部に位置せるより此名出づ、と。
これおかしいよねっ。
頭部に位置する場合は何て言うんだろうか?
用竹(ようだけ):往古此部落に大竹林ありしより此名あり、…
井戸(いど):古へ居処(いど)とも書せしといふ。
要は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が数日間、この地に泊まったことから、
この名が付いたという。(他の説もあるって)
小伏(こぶし):虎伏とも書せり。往古虎棲みしより此名あり、と。
えっ、虎が棲んでたって!
猪丸(いまる):又居丸とも書す、前方に城山を据え、
元此城の本丸の所在たりしを以て此名あり、と。
大垣外(おおがいと):猪丸に因み、
元と城の垣の大木戸有りて垣外に在りし部落なりしより此名あり、と。
沢渡(さわたり):渓間多き地盤なるより此名起こりしか。
日原(ひばら):西南に面せる傾斜地にして、日当り最も佳きより此名出でしか。
ついでに、
西原村:往古羽置庄ともいい、後西原村と称す。
ゆえに、西原の『びりゅう館』は、“羽置きの里”と謳っている。
ふーっ、この3年間で一番疲れるブログになってしまった。
あっ、書くのも、読むのもねっ♪