現在自叙伝を書いています。
今回は、第3章2節の「小学生時代」について紹介します。
内容は
今後は、中学生時代、高校生時代、大学生時代と続きますので、
ど
第3章 学校に通う
現在自叙伝を書いています。
今回は、第3章2節の「小学生時代」について紹介します。
内容は
今後は、中学生時代、高校生時代、大学生時代と続きますので、
ど
第3章 学校に通う
西野順治郎列伝の掲載開始
お待たせいたしました。
今回より「西野順治郎列伝」の掲載を開始いたします。
「タイ自由ランド」では、現在、西野列伝第136号を掲載中です。
このシリーズは、全200回前後を予定しております。
末永くお付き合いいただけましたら幸いです。
「西野順治郎列伝」
西野さんを囲んで
第2章6節 農業の現場で立つ
はじめに
子どもの頃の記憶を語るとき、学校生活と切り離せないものとして、家業である
農業の手伝いがあります。
それは単なる「手伝い」という言葉では収まらないものでした。日々の生活そのものが
労働と結びついており、逃げることのできない現実でした。
当時の私は、それを不満に思うこともなく、「生まれた家の宿命」と受け止め、
家のために働くしかありませんでした。
ここでは、そうした日々の中で関わった一年間の農作業について、記憶をたどりながら
記していきます。
春 ― 馬糞出しの朝
農作業は、まだ寒さの残る3月初旬、雪解け前から始まります。
最初の仕事は、堆肥として使う馬糞出しでした。
我が家では馬を飼っており、秋のうちに藁(わら)と混ぜて積み上げておいた馬糞を、
冬の間じっくり寝かせます。
春になる頃にはそれが発酵し、肥料として使える状態になります。
朝は四時ごろ、まだ外は暗い時間に起こされました。冷たい空気の中で体を動かし、
馬そりに堆肥を積み込んで田んぼへ運びます。
においのきつさよりも、寒さと眠気の方がつらかった記憶があります。
作業は七時ごろまで続き、終わると急いで朝食をとり、そのまま学校へ向かいました。
期間としては一週間ほどでしたが、家族全員が総出で行う、重労働の始まりでした。
田植え ― 近所全体の仕事
五月に入ると、田植えの時期になります。
これは一家だけで完結する仕事ではなく、近所全体の共同作業でした。
近隣の二十戸ほどが一つのまとまりとなり、互いに手を貸し合いながら一斉に作業を
進めます。
この時期には、学校も一週間ほど休みになりました。
それほどまでに、この時期の労働は生活の中心でした。
田植えには適期があり、その短い期間を逃すと収穫に影響が出ます。
そのため、限られた日数で一気に終わらせる必要があり、多くの人手が求められました。
作業は、苗代で育てた苗を抜き、束ねて苗かごに入れて田んぼに運ぶところから始まります。
植える人たちは横一列に並び、後ろ向きに下がりながら苗を植えていきます。
泥に足を取られ、一歩進むだけでも体力を消耗します。
気を失うように眠りました。
苗の位置をそろえるためには、「転がし(田植え定規)」と呼ばれる道具を使いました。
円筒状のものを転がして目印をつけ、その印に沿って苗を植えていきます。
単純な作業のようでいて、全体の出来を左右する重要な工程でした。
秋 ― 稲刈りと天候との闘い
9月中旬から10月にかけては、稲刈りの時期です。
この時も家族総出に加え、「デメントリ」と呼ばれる手伝いの人たちが加わりました。
鎌を使い、稲を根元から一株ずつ刈り取ります。
それを束ねていく作業は、腰を曲げ続ける単調で過酷なものでした。
どれだけ刈っても、目の前の田んぼはなかなか終わりません。
さらに気を使うのは天候でした。
秋の空は変わりやすく、雨が降れば作業は大きく遅れてしまいます。
空を見上げながら、焦りを感じていたことを覚えています。
ハセ掛けと乾燥
刈り取った稲は、そのままにせず「ハセ掛け」をして乾燥させます。
杭を打ち、横木を渡して「ハセ」を組み、そこに稲束を逆さにして掛けていきます。
稲穂を下にすることで、自然乾燥が進みます。
この状態でおよそ2週間、天日と風にさらします。
このハセ掛けの作業には、忘れられない思い出がありますので、ここで紹介します。
父は子どもたちが帰るのを待ってからハセ掛けを始めるため、作業は夕方6時ごろから
始まりました。
暗くなっても、月明かりを頼りに何とか仕事を続けることができました。
そんな中、ほぼ毎日のように、近くの劇場のスピーカーから音楽が流れてきました。
その曲はいつも決まって、映画「太陽がいっぱい」のメロディーでした。
映画は見ていませんでしたが、そのトランペットの響きは、今でも鮮明に覚えています。
お金や時間に余裕があれば映画を見に行けたのでしょうが、当時はそのような余裕は
まったくありませんでした。
それでも、このメロディーは、今でも私の愛好する曲の一つになっています。
その後、納屋に運び、脱穀作業に移ります。
当時は足踏み式の脱穀機を使い、手作業で進めていました。
脱穀した籾(モミ)はもみすり機にかけて玄米にし、袋詰めにします。
一袋60キロが標準でしたが、後に30キロに変わったと聞いています。
最終的に農協へ出荷して、その年の一連の作業が終わります。
「デメントリ」という言葉
農繁期に見られた特徴的な言葉として、「デメントリ」があります。
これは本来「手間取り」と呼ばれていたものがなまったもので、一時的に人手を雇って
農作業を手伝ってもらうことを指します。
田植えや稲刈り、ハセ掛け、脱穀など、人手が必要な場面で欠かせない存在でした。
おわりに
こうして振り返ると、当時の生活は過酷そのものでした。
学校には通っていましたが、予習や復習をする余裕はほとんどありませんでした。
正直なところ、サラリーマン家庭に生まれていたら、こうした経験はしなくて
済んだのではないかと考えたこともあります。
その意味で、農家に生まれたことを恨めしく思ったこともありました。
しかし一方で、その環境の中で耐え、働いた経験が、自分の基盤になっていることも
否定できません。
当時はただ必死にこなすだけでしたが、今になってようやく、その重みを実感
しています。
風邪の病気から肺炎になった友達
まず事実から書きます。
友達が言うには、風邪をひいたので病院に行き、薬を処方して貰いました。
2、3日で治ると思いましたが、5日間経っても治らず、寝込むようになりました。
そして今では、肺炎の恐れがあるという診断を受けるようになりました。
以上のような内容の相談を受けたので、私は薬が原因であると考えました。
そこで、友達から受け取った処方箋の詳細を確認しました。
その内容によると、5種類の薬をもらっています。
1つは咳を止める薬、
2つ目は痰)たん)を出にくくする薬、
3つ目、アレルギーに対する予防薬、
4つ目 抗生物質、
5つ目は菌を抑える薬の、合計5種類です。
問題なのは、4つ目の抗生物質配合剤という薬です。
この薬は、抗生物質の含有量の部分が空白になっています。
他の薬は含有量の表示があるにもかかわらずです。
配合剤と言う表現なので、抗生物質の量が少ないことが推測されます。
よって、薬が効かない原因は、抗生物質の含有量が少ないためではないか
と考えました。
私は以上の説明をしたところ、友達は医者に会って相談するそうです。
もし同じような説明をするならば、医者を変えるべきでしょう。
昔から風邪は「万病の元」と言われています。
今でもその言葉は生きています。
特に高齢者の場合、風邪をひいてそれが原因で重症になる例が多くあります。
予防のためには、毎日熱いお茶を飲み、喉から入る菌を防ぐ方法が良いと思います。
抗生物質については、ネットでは細菌に対して効果がないと書かれていますが、
実際は効果があります。
原理は、抗生物質というものが直接細菌を殺すのではありません。
以下は私見です。
抗生物質は、PH(ペーハー値)において中和のゾーンから、アルカらリ側に引き上げる
ことによって、細菌がアルカリ性の環境で生きれず死んでしまうという原理です。
まとめとして、自分の体は、自分で守りましょう。
そのためには健康病気、その予防について、日頃から学ぶことが大切でしょう。
コンドミニアム購入体験記
最近、コンドミニアムを購入したので、その経緯を紹介します。
まずロケーションですが、シーロム地区のビジネス街にある物件を選びました。
郊外よりも中心部の物件のほうが需要が高いと考えたためです。
購入価格は5,800,000バーツ。専有面積は約70平米の2ベッドルームで、
部屋は北向きです。
仮に西向きの部屋を選ぶと、西日が強く入り、室内が暑くなりやすいため、
賃貸需要に影響する可能性があります。
また、タイは年間を通じて気温が高いため、最上階の部屋も避けたほうが無難です。
この物件は、BTSの駅まで徒歩約7分という立地にあります。
さらに、居住者の約8割がオーナーであるため、管理に対する意識が
高い点も魅力です。
最後に銀行ローンについてですが、現在タイは景気が低迷しており、政策金利は
約1%と低水準です。
このような局面では、登記費用の優遇などもあり、不動産購入の好機といえるでしょう。
なお、私は長年不動産仲介業に携わってきたため、物件の選定には一定の経験と
判断力があります。
これまでは仲介の立場でしたが、今後はオーナーとして賃貸運用と管理に取り組んで
いく予定です。
いわば「昔取った杵柄」を活かした挑戦です。
床は、フローリングです。
私の自叙伝は、第7章「タイ移住とビジネス」を終え、ここから第2章
「我がふるさと当麻町」へと移ります。
遠く異国での歩みを語ってきましたが、その原点はすべて、この小さな町に
あります。
本章では、私を形づくった故郷・当麻町についてご案内いたします。
この内容が、皆さまにとって少しでも有意義なものとなれば幸いです
元菊川当麻町長と(2007年8月、於町長応接室)
立身出世日と自叙伝の公開について
私には毎年忘れることのない特別な日があります。
それは3月19日、私が18歳のときに故郷北海道当麻町を離れ、
横浜へ向けて出発した日です。
私はこの日を自分なりに「立身出世日」と呼んでいます。
当時の私は、将来の道がはっきり見えていたわけではありません。
ただ、故郷を離れ、新しい世界へ踏み出す決意だけを胸に列車に乗りました。
その一歩が、その後の私の人生を大きく方向づけることになりました。
それ以来、私は毎年この日になると、バンコクのラーマ1世(チャクリー王朝
の初代王)記念像の前で静かに祈願をしています。
遠く離れた地で人生を歩んできた自分にとって、この日は初心に
立ち返る日でもあります。
現在、私は4年前から「西野順治郎列伝」を執筆しており、すでに136号まで
書き進めました。
完成まではあと65回ほどを予定しており、すべてを書き終えるまでには、
さらに2年ほどかかる見込みです。
また、半年前から自分自身の歩みを振り返る自叙伝の準備を進めてきました。
そしてこのたび、その一部をようやくホームページで公開することができました。
https//www.kobayashi-yutaka.com
人の人生はやがて時の中に埋もれていきます。
しかし、歩んできた道や経験の中には、後の世代に伝えておくべきことも
あるのではないかと思っています。
私自身のささやかな歩みではありますが、その記録を文章として残し、
後世に伝えていくことが、これからの私の役目の一つであると考えています。
3月19日の立身出世日を迎えるたびに、私は初心を思い出しながら、
これからも筆を進めていきたいと思っています。
アメブロからホームページへの変更のお知らせ
これまでアメブロでブログを書いてきましたが、このたび新たにホームページを立ち上げ、
今後はそちらでブログ記事や自叙伝の記事などを書いていくことにしました。
新しいホームページのアドレスは以下の通りです。
ホームページ https//www.kobayashi-yutaka.
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
JR当麻駅表示板
人生とは理想との戦いである 2号
小林 豊 自叙伝
第7章 第2節 第1項 海外雄飛への憧れとタイ移住への道(1)
安定を捨てて挑戦を求める心
仕事に誇りを持って市役所に奉職した私ですが、役所生活の長所と短所が
次第に見えてきました。
役所は、社会の経済状況に左右されることなく安定した職場であり、
民間会社のような厳しい競争社会ではありません。
そのような状況に満足できる人もいれば、少数ながら私のように
満足できない人もいました。
役所の仕事は、大企業と同様にシステム化され、小さな歯車の一部分として
進められていました。
毎日がルーチン業務のように行われ、変化に乏しい仕事が続いていました。
そして入所して3年ほど経つと、将来、役所でどこまで地位が上がるのかが見
えてくるようになりました。
どんなに頑張っても、定年前の2~3年間を課長職で過ごし、その後
退職する姿が想像できました。
25歳で入所し、60歳の定年で終わるこのような役所生活に、
私は充実感を持てませんでした。
人生は一度きりなので、悔いのない生き方をしてみたいという
冒険心がありました。
この大胆な冒険心は、役所に入ってから芽生えたものではなく、
それ以前からあったようです。
××××
海外雄飛への憧れ
18歳で高校を卒業し、横浜の神奈川大学へ向かう時、将来は故郷に錦の旗を
飾るという心境を抱いていました。
大学に入ってからも、将来どのような生き方をすべきか、模索を続けました。
普通の会社に入って仕事をすることには、どうしても関心を持てませんでした。
大学卒業後に大学へ就職したのも、自分の進む道が定まらない中で、
将来を模索した結果でした。
大学というところは、学歴社会の最たるもので、研究成果よりも人脈や派閥が
優先される世界でした。
そのような生活の中で、市役所に入所できるチャンスに恵まれました。
当時、市役所は大量採用を行っていましたが、実際には見込みを上回る
人手不足の状況でした。
このチャンスに、つまり中途採用で幸運にも入所できたのです。
市役所に入所し、この仕事を通じて社会勉強ができることを嬉しく思いました。
それでも、将来、社会のために役立つ人間になりたいという希望は消えませんでした。
そして、常に海外に行って自分を磨きたいという考えを持ち続けていました。
××××
タイとの出会いと入れ込み
私が初めてタイへ観光旅行したのは、市役所に入所してから3年ほど後のことでした。
その時、私は28歳でした。
シンガポールで三菱造船の駐在をしていた山口さんを知り、彼を訪ねて行きました。
その日程に合わせてマレーシアへも足を伸ばしました。マレーシアはイスラムの国で、人々に元気がない印象を受けました。
一方、タイに行くと陽気な国民性で、毎日がお祭りのような賑わいでした。
約10日間の日程で旅をしましたが、最後に訪れた国で旅行の楽しさを強く味わいました。
それが強く印象に残り、再びタイを訪れたいと思うようになりました。
3月19日の門出、父と叔母と共に
ホームページ立ち上げに奮闘中
この年になってホームページを作成中です。
立ち上げる理由があります。
それは自叙伝を公表する手段の1つとしてホーム
ページアップを考えました。
立ち上げは、もう宿命なようなものです。
つまり自叙伝を書いている以上は、独自の作品を公表する
手段のひとつとして、このホームページ立ち上げに至りました。
今までブログやFacebookなどのところで作品を載せて
きましたが、それらは、私の考えと一致しないのです。
やはり文章をしっかりしたサイトでアップして、
多くの人に読んでもらいたいのです。
現在ホームページ作成について、YouTubeを参考に
しながら勉強しています。
ホームページは、業者に注文して作成したらどうかと
言う意見もありますが、それをそうはいきません。
ホームページは、立ち上げよりもそれ以降の運営の方がより
重要なのです。
この定期的なメンテナンスが行うことがホームページの命です。
作成について、この分野について人に教えることが可能になる
位の実力を持つことが大切でしょう。
ホームページの作成で重要なことの1つとして、将来を見込んだ
根本的な土台作りが重要だと思います。
そうしないと作成後、不具合が出てきてその修正に多くの時間を
取られることになります。
77歳と言う高齢で、ホームページを作成にチャレンジしていますが、
物覚えが悪くなって何度も何度もおさらいをしながら
少しずつ進んでいます。
いつになったら皆さんに公表できるのか、ひそかに思いつつがんばっています。