「大阪の日本画」

第三章は

「新たなる山水を描く矢野橋村と新南画」


大正に入ると、新しい表現を探求する動きが見られるようになるが、大阪では旧来の表現をよしとする傾向が根強くあった。

そうした中、大阪の日本画の地位向上のために、尽力した人物がいる。

それが、矢野橋村だ。



矢野橋村「柳蔭書堂図」


現在の愛媛県今治市に生まれた矢野橋村は、

明治40年に大阪に出て間もなく、左手首切断という不慮の事故に遭い、右手1本で画業に専念する決意をする。


その覚悟、気迫が絵から伝わってくるようで、

圧倒されてしまった。


橋村は、伝統的な南画(文人画)に近代的感覚を取り入れた「新南画」を積極的に推し進め、近代大阪画壇において恒富らの人物画に並び、大阪を代表する日本画となった。

橋村の日本画は、必見です!



第四章

「文人画 街に息づく中国趣味」


江戸時代、都への玄関口にあたる大阪には様々な文物が集まり、煎茶をはじめとする中国趣味が栄え、文人画が流行した。

明治以降もその人気は続き、各地から文人画家が集まり、優れた作品が多く生まれた。

橋本青江ら、女性画家の活躍も見られ、画塾を構えて後進の指導にもあたった。


第五章

「船場派 商家の床の間を飾る画」

とても大阪らしいなぁと思ったのが、この船場派!

大阪と言えば、商人の街。


多くの商家が並び、町人文化の中心であった船場界隈で家々の床の間を飾ったのは「船場派」の作品だった。




深田直城「春秋花鳥之図」

深田は明治期に京都から大阪に移り住み、花鳥や動物を得意とした。

船場派にはいくつかの系譜がみられ、それぞれ特徴は異なるものの、注文に応え求められた絵を描く船場派のスタイルは、大阪の人々の暮らしに寄り添い、もっとも大阪らしい絵画であった。

また、その注文に応えたり、時には商家の子供たちに絵を教えるだけで十分生活が安定したので、評価を得て自分を売り込む必要がなかった。

そのため、公募展への出品は少なく、結果的には船場派の多くは今日では市井の画家という評価にとどまっている。



西山完瑛「朝波仙禽図」

船場派は、展覧会で目を引く鮮やかな色調の作品ではなく、さりげなく床の間に飾るにふさわしい、品のいい作品が特徴。

家の床の間で、ずっと見続けられる絵画。

「床の間の芸術」というものがあるのだなあと、

しみじみしながら、静かで品の良い絵に観入った。