こんにちは(^o^)
ばななと申します。
いよいよ、冬休み。
お母さんはお子さんとの関わりが濃くなり
げんなりされている方もいらっしゃるかもしれません。
宿題や課題が出るので
家庭学習、勉強ということについて考えさせられることもあると思います。
そんな勉強についてのぼくの考え。
パソコンとグーグルと時間さえあれば
大学の入試問題は解けてしまう。
先日行ったセミナーで講師のせんせいが言っていました。
あるいはAI。
そんな時代なんだなぁ、とつくづく思います。
知識を大量にもっていて、
時間内にそれらを組み合わせて処理する
という今までの勉強スタイルは
だんだん役に立たなくなるのでしょうね。
そしてかえってある局面では、
その知識が邪魔をして
柔軟な発想が出来ないのではないでしょうか。
例えば
4+2=8
これ、ありえないですよね。
もう6以外考えられない。
でも、
ある子が
「4人はお母さんで
うち2人がお腹に赤ちゃんがいる」
って言ったことがあります。
当たり前を当たり前と思わない発想が
これからますます必要になる気がします。
勉強ができない(とされる)子は
よく観察していると
勉強が
全部不要。
そんな見方をしています。
本当に勉強の出来る子って言うのに
何度かお目にかかっているんですが、
「あっ、これって~の○○に使える」
って見るのが上手いんです。
勉強と自分の関係を見る
これ極意だと思うのです。
で、観察日記をつけてもらうと
その子の対象との距離感が分かります。
あと勉強が出来ない(とされる)子は
自分と勉強とのつながりを味わうと
家庭的にまずかったりします。
具体的に言うと、
親が勉強なんて、と思っているお家の子どもは、
勉強に対して懐疑的な見方をしてています。
ぼくの父親の口癖は
「今のウチに勉強してあとは遊べ。
おれなんか若い頃勉強したから今遊びまくっている」
でした。
あのときから懐疑的でしたが
今改めて聞くと、頭どうかしていますよね(*^O^*)
あるいは、勉強を深刻なまでに自分ごとに持っていっている子のお家は
「これができないと人生ひどいことになる」
そういう親の聞き方を常日頃聞いていると
勉強に対して恐怖心が湧きます。
結果について慎重になって
勉強本来のプロセスを楽しめなくなります。
すごくざっくりいうと
勉強が出来ない子って
良くも悪くも
親の言うことをききすぎている子なんです。
勉強するには
「それを使って遊ぶ」
ことです。
それを受け入れてもらう。
割り算で言えば、
等しく分けるやり方で
自分の生活にあると便利なもの。
という立ち位置です。
この感覚に必要な体験は
実際に分けること。
3年生を担任すると
ぼくは徹底的に分けてもらいます。
数え棒やお金と言った算数セットのアイテムや
プリント、文房具など
この「わける」と幸せになる
という感覚が実は大事で、
計算というものはあとからついてくるんですね。
先日のばなな塾には
現役の中学生がやってきました。
お母さんに連れてこられたそうです。
その方、お子さんの勉強のことで悩んでいるそうです。
勉強ができない、と。
できないことに深刻になっているパターンですね。
お嬢さん、とってもいい子なんですよ。
だからその深刻さを一緒に感じてしまっている。
でも素敵でした。
お嬢さん、泣いて抵抗してやりませんでした。
もってるじゃん、と喜びました。
その子の見方を受け入れてもらえたとき
子どもはその子に必要なものを
勉強しだします。
勉強は親の人生に向き合う深刻さが問われる。
まじめにやり過ぎても
斜に構えすぎていても。
それでいい(^o^)