小学校のせんせいをしていて、

あるとき気づきました。

 

 

子どもたちは

「お母さんに承認されたくって学校に来ている」

 

当時、いいせんせい気取りでしたから

もうショックでした。

 

テストで良い点数をとろうとするのも

運動会で活躍するのも

 

 

さらには、

兄弟でけんかするのも

だらしないのも

 

病気やふとうこうを選択することでさえ。

 

 

ぼくのため、友だちのため

そんなことよりも

お母さんのために……。

 

 

厳密に言うと

 

お母さんとの体験

お母さんとの相互成長

お母さんに気づきを提供する

お母さんの深いところでしたいことへのサポート

 

 

を通して自己の体験をしている。

 

 

良いことも悪いこともあわせもって……。

 

 

まぁ、ざっくり言うと「お母さん愛」ですよ。

 

 

 

 

だから彼らは、教室がほっこりしてくると

ぼくに向かってこう呼び間違えるのです。

 

 

「お母さん(^o^)」

 

 

そして、なぜかその言い間違えだけは、

算数や漢字の誤答と違い、

ぴりぴりすることなく、

みんなほほえんでいるのです。

 

 

今世では決してお母さんになれないぼく。

その挫折感は容易に想像できることと思います。

 

で、子どもたちと関わっていると

 

 

お母さんが

「あなたらしい」

「それでいい」

って言っていると

勝手に成長していっています。

 

 

 

反対に

「それじゃダメ」

「もっとやらないと」

「そんなことじゃ」

と言っていると

その言葉に応じた自己表現をしていきます。

 

 

比較したり

結果にこだわったり

出来ないことに消極的になったり。

 

 

でも、その子に必要な体験や学び、気づきがやってきます。

それがその方の周りには必要なんです。

 

 

 

そのとき思いました。

きょういくって

お母さんがすること

じゃないか

 

お母さんが自分の子どもと向き合って

あーでもない、こーでもないとすったもんだすること

 

 

 

当時、うまい授業をするせんせい気取りでしたから

それはショックで、

 

 

 

とうとう、存在も授業も挫折したぼくのすさみようは

容易に想像できることと思います。

 

 

そのときからぼくの師匠はお母さんになったのでした。

 

 

 

「お母さんになっただけで素晴らしい」

ぼくのコトバはこのぼくの焼き餅から出ています。

 

 

 

でもね、そう伝えようとしたら、

お母さんの自己評価がとてつもなく低いことに気づきました。

 

 

 

師匠だと思っていた存在が

うなだれていたのです。

 

 

 

だから、お母さんに伝えたくって立ち上がりました。

 

 

 

子どもたちは、お母さんと

すったもんだしたいんです。

 

 

あなたとのぶつかりあい

あなたとの関わり合い

あなたとの体験。

 

 

 

 

お母さんになれなかった

一人のおっさんだから見えたこと。

 

 

 

色々あるでしょうが

あなたが、良いお母さんでも悪いお母さんでも

それでいいのです。

 

 

 

あなたのまま、お母さんをやってください。

 

 

どんなお母さんでもいいのです。

 

 

お母さんという役割を選択した自分で起ることを

心から味わってください。

お母さんになれなかった者から(^o^)