うまく伝わらないかも知れないけれど
ぼくは生活空間としての学校はいらないと思っているんです。
何か目的があったときに集まって、
その目的に必要な学びや体験をする。
あるいは、無目的に集まって
自然発生的に
学びや体験がうまれる。
でも、今それをすると
たぶんぐちゃぐちゃになっちゃう気がするんです。
なぜって、
みんなそういう場所に行くと
受け取るのが当たり前
っておもっているから。
やる人とそれを教わる人
って図式ができすぎてる。
だから、ぼくらのあり方スクールでも
小学校3、4年生のあなたに出会えるなら
なんだってする場所です
っていっているのに
スタッフの態度が悪いとか言われる。
仕方がないんです。
ほぼすべての日本人が
スクールは教わる場所だ
って思ってからです。
だから、一度はぼくらも学校を作るんです。
3、4年生でいられる学校
それから
各自場所を創っていく。
そうじゃないと
ヒエラルキーができたら
そこにいる自分は凄いとか
ここに来れば何もせずに問題が解決できる
っていうふうになっちゃうんです。
漢字の苦手な子がいてね
その子に一生懸命教えている子がいたんです。
その教えてた子がいうんですよ。
教えさせてくれてありがとう
その子、感じの苦手な子ね、
えっ、て目が潤んでいました。
これが嫌みじゃなく
そうだよな、って捉えられたとき
学校の持つ意味が変わるんです。
ぼくこの人とやりますよ(^o^)