さて,今日を過ぎればようやく家を再建する次のステップが踏める。
これでやっとフラッシュライト生活から脱することができるし,避難民みたいな生活とも多少はさよならすることができる。
問題は,未だに固定回線が利用できないということ。
とっととこい工事!明日お怒りクレームつけてみようかしら。
準備も整え,避難時にどれくらい被害を被ったのか確かめねば。
随分と埃をかぶり,虫に食われてしまった。買い直すことになるのか…?
もう1年,いや半年くらいは耐えていてほしい。折角長期で使えるように厳選しているのに,あんな適当な扱いで壊れたり劣化が進んでしまうのは耐えられない。
そういう意味では全部捨ててリセットしたいが。
まずはぐちゃぐちゃになってしまった環境を再編するのが先決か。
今日は,「迷惑」について。
よく言われることは「迷惑をかけてはいけない」だろう。
しかし,よく考えてほしい。迷惑をかけないで生きていくことは可能だろうか?日本人は迷惑をかけないことを美徳としているが,それは雲を掴むような話であることを重々理解してほしい。
これは裏を返して言えば,迷惑をかけられた場合に,それが常軌を逸した扱いとして,酷く糾弾してしまう,いわば盾になってしまっている。
これは日本独自の思考のようで,欧米や諸外国は真逆である。
アメリカの場合は、「お互いさま」の論理が先行する。自分が迷惑をかけるかもしれないが、相手の迷惑にも許容範囲が広くなるというスタイルを取っている。
イタリアでは(他人に迷惑をかける事は)それほど悪い行為と認識されていない。自分が生きるためには周りに迷惑をかけることは仕方なく、また時には迷惑をかけられることもあるから、「まあ、迷惑かけるけどいいじゃん」といった具合。
インドでは,「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」という内容。
どれもこれも,他人と共生していることが先立っているからこその考え方である。
つまり日本の美徳は,他人との共生を推奨しない思考を育てていることにもなりかねないのだ。人目を気にして,主体性や個性が育ちにくかったり,逆に人に迷惑をかけなければ何をやっても良いというひねくれた思考だって育ってしまうだろう。何もしないという選択だって,美徳とした迷惑をかけないという行為によって選択せざるを得なくなる。極論だが,正解でもある。他人と関わる行為を極端に拒否すれば迷惑は絶対にかからないから。
周りを気にするがあまり完璧を求めすぎて,結局何事も成せないまま終わる。
迷惑というのはかけるのもかけられるのもお互い様。
そこに許容を見いだすことができず,世間体や人目を気にするようであれば,その人の人間性はそこで頭打ち。
まずは,相手に対して自分の器を広げることが,自分が大きくなるために必要なことであり,他人と共生するために必要なことではなかろうか。
つまりは,美徳にこだわりすぎる人は,器の小さい人,とも取れるのだ。
他人に合わせたり,自分を守ろうとする行為そのものが,自分を狂わせ,思いもしない方向へ自分を陥れることだってある。
赤信号
みんなで渡れば
怖くない
しかし私は
嫌なのでパス
みんなに合わせることも,迷惑をかけないようにすることも,なんの自慢にも美徳にもならない。それはただ自分可愛さのあまり踏み出せないでいるほじなしの戯言と変わらない。
一人では生きられない。独りで生きるつもりの人が言っても説得力はないが,それでも一人では生きられない。
「迷惑をかけるな」という言葉自体が没個性的なワードである。