注意本日、長文です。





『子育て』のゴールテープは
いつ切れるのかしら?

『子』
私の娘が私の子どもであることは未来永劫変わらない。

『育て』
成人年齢は引き下げられて、20歳から18歳になった。世間一般的には高校を卒業する頃が『子育て』のゴールなのだろうか。我が子は初夏生まれで、部活のラストスパート期間。『受験』という文字はチラつく程度←、高校卒業はまだまだ先だった。
やはりここは『子育て』をしている【本人】の体感・実感で個人差があり、横並びに決められるものではないのであろう。

私の場合の『子育て』のゴールは、体感として、中学卒業時(義務教育終了時)だったような気がする。

…と言うわけで

今回、ブログのテーマは『子育て』でなく、『Family』にすることにした。



大学生の母になって思うこと



私は晩婚で高齢出産だった。



妊娠期間中は臨月近くまで仕事をしていて、食べ悪阻はあったけれどそこまで酷くなく、中毒症もなく、年齢の割に苦労しなかったのではないかと思う。


ところが37週に入ってすぐ破水してしまい、陣痛促進剤を打ってもらっての出産になった。



よくドラマで見かけるあれ

あの感動的な出産シーンは私には訪れなかった。



長らく患った便秘が解消したような←気持ち良さはあったのだけれど、すぐさま思い浮かんだのは


まずい

もう1回、これやるの絶対無理


だった。



夫は5人兄弟、私は3人兄弟。

一人っ子は頭の中にまったくなかったのだ。


高齢出産でホルモンの増減が激しいからか、産後は不安症になった。出張が多い夫の仕事の都合で、未知の土地でのワンオペ育児だったことも影響していたと思う。母乳が満足に出ず、『母親失格』とまで思い詰めた。


追い打ちをかけたのは2人目を流産したことである。深い悲しみと自責の念。流産とてホルモンの増減はあるので、より一層不安症になった。


娘は激しく泣く時間が長い乳児で、落ち着きがない幼児になった。一度、遊びに行った幼児向けのイベント会場で、あまりよく知らない保健師に指摘され、すがるように専門の施設に出向いて診断をしてもらったこともある。瞬殺で『白』と診断されて、むしろ驚いたけど。



そんな中で私が幸いだったのは、不安症でも他人にすがることができたことである。ひとりで部屋にこもっていることができず、いろいろな関係施設に出向いて行って相談し、専門のスタッフにとても助けていただいた。


偶然、私が住んでいた地域が新興住宅地で、子育て世代が比較的多く住み、子育て施設が充実していたのだ。

うお座うお座うお座うお座うお座

私が深海魚ママだったのは幼稚園入園までだったと思う。幼稚園は先生にもママ友にも恵まれて、娘も集団にすぐ馴染み、不思議と落ち着いてきた。


転居して環境が大きく変わったり、友達とうまくいかなかったり、高校受験で行きたかった(太鼓判押されていた)第1志望に落ちたり…石ころが転がっている道ではあるけれど、娘は今日もマイペース大学生を貫いて歩んでいる。



花束花束花束花束花束



さて、やっと本題。


大学生の母になって思うことは、突然降って湧いた思いでなく、ずっとずーっと心の片すみにあったこと。



過去に娘の弟妹を諦めて、このかたずっと


親がいなくなっても生きていける子に


が、私の『子育て』のテーマだった。


『娘がよいように』『娘さえよければ』寄りだったと思う。


でもそれは、カタチはいろいろあれど、生物として自然なことではあるまいか?



親が自分の産んだ子を愛情を持って大切に育てることは平和のベース、個々の幸せのベースになりえると思っている。




ただ今は





どんなに良い学校に行かせたいと思っても、どんなに良い暮らしをさせたいと願っても


戦争が始まったら意味がない


災害の前では意味がない


犯罪が増えたら意味がない



私の『子育て』の最初のつまずきで救ってくれたのは、充実した施設と、そこで働く心優しきスタッフであり、社会である



平和を願い、災害があっても助け合える社会でなければ、我が子の幸せは実現しない



そういうことにもっともっと

心を傾けられたらなぁと

世界の片すみで思っています。




きれいごとになってしまうかもだけど。







先日、いただいたお菓子がすごく美味しくて目がハート

(全体的に偏食だけど)お菓子は特に偏食な娘にヒットよだれしていました。

どの味も私には美味しかった!



送料対策は必要だけど↓