いや迷いましたよね。

書くかどうか迷いましたよね。

まるでサンドの富澤さんみたいですよね。


皆様すでにご承知の通り、作曲家のキダ・タローさんが5月14日に永眠なさったそうです。


93歳で旅立たれたとのこと。


正直キダ先生の年齢なんて考えたこともございませんでした。


関西生まれ関西育ちの私にとって、オモロくてちょっとおっかない、見ていて少しハラハラさせてくれるこのおっちゃんは、テレビに居てはるのが当たり前の存在だったのです。


正直ね。


皆さんキダ先生のことをどんな風に認識してはりますでしょうか?


“かに道楽のおっちゃん”

“日本海みそのおっちゃん”

“まこっちゃん(タレントの北野誠さん)の仲人さん”

“時々キレ散らかすおっちゃん”

“テレビで見ていてたまにこっちがハラハラするおっちゃん”


そんなところだと思いますし、自分も大体そんな感じでした。


プロポーズ大作戦のテーマに合わせて


♪おっこっる〜でしかっしっ♪


と口ずさんだかつての小学生男子はコメント欄で申告してください。


ただし、こちらの年齢が上がるにつれて、この説明だけでは片付けられなくなって来ます。


まず、話し方の上品さに気付きます。


すらすらと丁寧な関西弁でお話しなさる姿は上岡龍太郎さんと双璧を成す存在だと思っておりますし、指揮棒を振ったりピアノを演奏なさったりする姿からは、悲壮感よりも品の良さを感じます。


そしてその作品から時折り漏れる“大人っぽさ”の正体はナンジャラホイ?と思っておりました。


確か5年ぐらい前だと記憶しておるのですが、テレビ大阪でキダ先生に密着取材をするという番組が放送されておりました。


考えてみれば今まで聞いた事もなかったキダ先生の生い立ちが綴られておったのですが、その中に私の疑問を氷解させるエピソードが多数出ておりました。


音楽に触れるキッカケが、若くして亡くなられたお兄様の欲しがったアコーディオンだったそうで、お兄様の没後にそのアコーディオンを弾いていたところ、お姉さまから“上手やん”と言われてその気になったのだとか。


その後終戦を迎えて海外からやって来たジャズやタンゴのトリコになり、猛練習をして二十歳の頃までには人前で演奏出来るジャスピアノの腕を手に入れたそうです。


西の天才がキダ先生ならば、東の天才と称されたのが小林亜星さんですが、キダ先生曰く、亜星さんの書く曲には“品がある”とのこと。


それを言うならばキダ先生の作品からは、隠しきれない“色気”を感じるわけで、小林亜星さんの“日立の樹”は自分には書けないと仰っていましたが、逆に小林亜星さんにはキダ先生の“ラブアタック”は書けないと思います。


やはりキダ先生の根幹を成すものは、大人の雰囲気漂うジャズであったり、関西人の遺伝子にマッチしやすいラテンのリズムであったりするのだろうと思っています。


そこに演歌や歌謡曲のメロディーが組み合わさって、唯一無二の“キダメロディー”が醸成されて行ったのだと勝手に解釈しております。


我々の業界でもそんなキダ先生のエッセンスが詰まった楽曲が目の前にあるわけです。

京阪中之島線の開業に合わせてキダ先生が作曲をなさった“はじまりは中之島”とカップリングの“鴨リバーサイド物語”はもっと評価されるべき楽曲だと思います。


しかしまぁなんですなぁ。


こんなに理屈をこねくり回した文章を書いてると、


「会ぅたことの無い人間についてグダグダ言うてんと、黙って聴いとったらエエんや‼︎」


と、お叱りを受けそうです。



Swallowtail