二十年前の手紙
師匠、おこんにちは
よッ
今日は朝から海を眺めて温泉だったそうッスね
そうなんだよ。芝浜って落語を覚えたとき、夜明けの海を見ながら稽古した思い出の温泉なの
そうなんッスか
なんか、函館の朝市にも行ったそうで
うん。ホタテを焼いてもらって生ビールをくいッと
いいッスね
そうよ。気分は今は移動して別の温泉にきてんだけど素晴らしいのなんの
うらやましいッスね~ところで師匠、今日は何かお話を書いてくれたんッスか
もちりん温泉につかりながら書いたよん。では始まり始まり…
私の名前は田部井郁子、三十八歳。食品メーカーに勤める同い年の夫との間に、小学五年生の男の子がいます
長期のローンを組んで、やっと念願の一戸建てを手に入れた私たちは、今、引っ越しの準備をしている最中です
荷物の整理をしていていたら、アルバムの間から一通の手紙を発見しました
封筒には、二十年後の郁子さんへ。十八歳のあなたより、と書いてあります
すっかり忘れてましたが、そういえば高三の春休みに、将来の自分にむけて手紙を書いたことがありました
いったいどんなことを書いたんだろう。私はワクワクしながら昔の自分と対面してみることにしました
手紙の字は今も変わらない丸文字
私が書いたものに間違いありません
郁子さん、お久しぶりです。この手紙を読んでいるということは、今のあなたは三十八歳ですね?
私は心のなかでハイと答えました
私は二十年後のあなたがどうなっているのかとても気になります。ですから、いくつかの質問に答えて下さい
質問1 現在、高校三年生の私の夢は、海外で働くこと。もしだめなら、大好きなケーキ作りを極めて日本一のパテシエになるつもりです。郁子さんは今、何をしていますか?
質問2 私はシブガキ隊のモックンに夢中です将来の旦那さんは、彼のようにスリムで眼力のある人を選ぶつもりですが、今、あなたのとなりにいるのはどんな人ですか?
質問3 高校三年生の私は夢をいっぱいもっています。今のあなたは?そしてこれが一番大切なことですが、二十年たった郁子は今、幸せですか?
昔の自分がなげかけてくる質問のすべてが、私の胸に突き刺さります
今の私はただの主婦だし、夫は、本木さんとはまったく違うタイプで、背が低く眼鏡をかけたごく平凡な男です
今、幸せですか?
こんなにストレートな質問をされたのは初めてかもしれません
決して不幸ではないけれど、胸をはって幸せと言える自信はありません
私の人生は、なぜ十八歳の時に描いていたものと全く違うものになってしまったんでしょう
別れ道は大学四年の時だったかもしれません
たしかに二十歳を過ぎるまでは海外に行くつもりでした。でもサークルで知り合った彼と付き合っているうちに、彼と離れるのがイヤで、東京で就職することを選んだのです
それなのに、入社してしばらくたって、その相手とは別れることになってしまいました
今さら会社をやめるわけにもいかず、その後、数人の男性とお付き合いしましたがうまくいきませんでした
その度に相談にのってくれていたのが、同期入社をした今の夫です
強く惹かれたわけではありませんが、歳も歳だし、贅沢言ってると誰も相手にしてくれなくなるよ、という親友のひと言で結婚を決めました
もし、大学時代のあの恋愛がなかったら、もう少し冷静に自分の将来を見据えていたら、私の人生はかわっていたかもしれません
ひょっとしたら、有名パテシエとして度々、女性誌に登場していたかも
夫は優しいし、世間一般的にみても、悪くないほうだと思います
ただ、もし二人の間に子供がいなかったとしたら、ここまでもったかどうかはわかりません
一時期は子育てに熱中することで気を紛らわせてきましたが、あと数年で子供が自立した時のことを考えると不安な気持ちになってしまいます
そして今回、マイホームがもてたことで、嬉しい反面、これで私の人生が決まってしまったような寂しい気持ちになったのも事実です
考えるてみると、若い頃の私は足し算でものを考えていました
ところが、ある時期から引き算で生きることを身につけたしまったのです
とうせ無理。今さらやっても手遅れ。私にそんなことができるわけがない
そうやって、妥協を繰り返し、無理やり自分を納得させながら、今日まできてしまいました
このまま、終点までひかれたレールの上を走っていてもいいのでしょうか
まさか二十年前の自分が、私を苦しめるとは思いませんでした
実は、高校生の私に、将来の自分に手紙を書いておくと面白いわよと教えてくれたのは母だったのです
母も実際に、二十年後の自分に手紙を書き、そして、その手紙を読んだ半年後に父と離婚しました
高望みさえしなければ、普通に暮らしていけるに違いない今の生活
私はそれをありがたいことだと思っています。ただ…
ねぇ郁子、そろそろお茶にしないか
後ろから夫の声が聞こえます
これさぁ、この間テレビで紹介してたチョコレートケーキ。偶然、駅前のお店だったんで今買ってきたんだよ。さぁ、みんなで食べよう
わぁ、ありがとう
そういえば昔、母が言ってました
これといった魅力があるわけじゃないけど、人間は悪くない
女にとってこういう男は要注意よ
世の中には、優しさの暴力っていうのがあるんだからね
=KOASA
よッ
今日は朝から海を眺めて温泉だったそうッスね
そうなんだよ。芝浜って落語を覚えたとき、夜明けの海を見ながら稽古した思い出の温泉なの
そうなんッスか
なんか、函館の朝市にも行ったそうで
うん。ホタテを焼いてもらって生ビールをくいッと
いいッスね
そうよ。気分は今は移動して別の温泉にきてんだけど素晴らしいのなんの
うらやましいッスね~ところで師匠、今日は何かお話を書いてくれたんッスか
もちりん温泉につかりながら書いたよん。では始まり始まり…
私の名前は田部井郁子、三十八歳。食品メーカーに勤める同い年の夫との間に、小学五年生の男の子がいます
長期のローンを組んで、やっと念願の一戸建てを手に入れた私たちは、今、引っ越しの準備をしている最中です
荷物の整理をしていていたら、アルバムの間から一通の手紙を発見しました
封筒には、二十年後の郁子さんへ。十八歳のあなたより、と書いてあります
すっかり忘れてましたが、そういえば高三の春休みに、将来の自分にむけて手紙を書いたことがありました
いったいどんなことを書いたんだろう。私はワクワクしながら昔の自分と対面してみることにしました
手紙の字は今も変わらない丸文字
私が書いたものに間違いありません
郁子さん、お久しぶりです。この手紙を読んでいるということは、今のあなたは三十八歳ですね?
私は心のなかでハイと答えました
私は二十年後のあなたがどうなっているのかとても気になります。ですから、いくつかの質問に答えて下さい
質問1 現在、高校三年生の私の夢は、海外で働くこと。もしだめなら、大好きなケーキ作りを極めて日本一のパテシエになるつもりです。郁子さんは今、何をしていますか?
質問2 私はシブガキ隊のモックンに夢中です将来の旦那さんは、彼のようにスリムで眼力のある人を選ぶつもりですが、今、あなたのとなりにいるのはどんな人ですか?
質問3 高校三年生の私は夢をいっぱいもっています。今のあなたは?そしてこれが一番大切なことですが、二十年たった郁子は今、幸せですか?
昔の自分がなげかけてくる質問のすべてが、私の胸に突き刺さります
今の私はただの主婦だし、夫は、本木さんとはまったく違うタイプで、背が低く眼鏡をかけたごく平凡な男です
今、幸せですか?
こんなにストレートな質問をされたのは初めてかもしれません
決して不幸ではないけれど、胸をはって幸せと言える自信はありません
私の人生は、なぜ十八歳の時に描いていたものと全く違うものになってしまったんでしょう
別れ道は大学四年の時だったかもしれません
たしかに二十歳を過ぎるまでは海外に行くつもりでした。でもサークルで知り合った彼と付き合っているうちに、彼と離れるのがイヤで、東京で就職することを選んだのです
それなのに、入社してしばらくたって、その相手とは別れることになってしまいました
今さら会社をやめるわけにもいかず、その後、数人の男性とお付き合いしましたがうまくいきませんでした
その度に相談にのってくれていたのが、同期入社をした今の夫です
強く惹かれたわけではありませんが、歳も歳だし、贅沢言ってると誰も相手にしてくれなくなるよ、という親友のひと言で結婚を決めました
もし、大学時代のあの恋愛がなかったら、もう少し冷静に自分の将来を見据えていたら、私の人生はかわっていたかもしれません
ひょっとしたら、有名パテシエとして度々、女性誌に登場していたかも
夫は優しいし、世間一般的にみても、悪くないほうだと思います
ただ、もし二人の間に子供がいなかったとしたら、ここまでもったかどうかはわかりません
一時期は子育てに熱中することで気を紛らわせてきましたが、あと数年で子供が自立した時のことを考えると不安な気持ちになってしまいます
そして今回、マイホームがもてたことで、嬉しい反面、これで私の人生が決まってしまったような寂しい気持ちになったのも事実です
考えるてみると、若い頃の私は足し算でものを考えていました
ところが、ある時期から引き算で生きることを身につけたしまったのです
とうせ無理。今さらやっても手遅れ。私にそんなことができるわけがない
そうやって、妥協を繰り返し、無理やり自分を納得させながら、今日まできてしまいました
このまま、終点までひかれたレールの上を走っていてもいいのでしょうか
まさか二十年前の自分が、私を苦しめるとは思いませんでした
実は、高校生の私に、将来の自分に手紙を書いておくと面白いわよと教えてくれたのは母だったのです
母も実際に、二十年後の自分に手紙を書き、そして、その手紙を読んだ半年後に父と離婚しました
高望みさえしなければ、普通に暮らしていけるに違いない今の生活
私はそれをありがたいことだと思っています。ただ…
ねぇ郁子、そろそろお茶にしないか
後ろから夫の声が聞こえます
これさぁ、この間テレビで紹介してたチョコレートケーキ。偶然、駅前のお店だったんで今買ってきたんだよ。さぁ、みんなで食べよう
わぁ、ありがとう
そういえば昔、母が言ってました
これといった魅力があるわけじゃないけど、人間は悪くない
女にとってこういう男は要注意よ
世の中には、優しさの暴力っていうのがあるんだからね
=KOASA