ノモンハン事件について長々と書いていますが、ノモンハン事件は参謀本部の煮えきらない態度が関東軍作戦課に利用された事によりノモンハン事件は悲惨な結末となっていきます。外交交渉は駐ソ大使東郷茂徳はノモンハン事件の外交的解決を有田外相から一任されていました。

 

今回もこの辺りを半藤一利氏の『ノモンハンの夏』より見ていきます。

しかし東郷はすぐには動こうとはしなかった。戦局のかんばらしからざるときにこっちから和平をもちだしては、交渉上不利になると東郷は考える。にもかかわらず、東郷はモロトフと会談する機会をしばしば求めた。

北洋漁業や樺太の利権の問題などをめぐって、話し合わねばならないことがほかにあったからである。

 

その折に、東郷とモロトフとが、ノモンハン紛争の和平についてどれほど論じ合ったか、あまりはっきりしない。

第三者の観察によれば、かれらは早くから激論をかわしている、というようにみられている。モスクワ駐在の英大使シーズが英外務省に送った七月の報告のなかに、こんなことが書き込まれている。

 

「モロトフはじつに厄介な相手であるが、そのモロトフと、蒙古の国境で起こっている武力衝突というような問題で会談せざるを得ない東郷の立場を考えると、ぞっとする。

もっとも勝負は五分五分というところかもしれない。‥‥‥東郷の押しの強さも情け容赦ないもので、あの強情な古つわもののリトビノフも、くたくたにさせられたと語っている」

 

ノモンハン事件のなりゆきは、「第二次大戦」の危機とも微妙にからんで国際的にも注目されていたのである。

 

モスクワの交渉がどうであれ、三宅坂上の秀才たち(参謀本部)は、ともかく作戦終結にむけて急ごうとしていた。五相会議の決定もあり、陸軍中央の方針はこれ以上紛争を拡大してはならないとすることで一致している。

これを徹底させるために、意思統一をはかるためにも、関東軍参謀長を東京によぶことの必要を認めた。

 

七月十八日、参謀総長から軍司令官あてに「軍参謀長を上京させよ」との電報が関東軍司令部にとどいたとき、好戦的な参謀たちがまたまた大いにごねている。

 

(一部略)

 

しかし参謀長の磯谷はさすがにそこまで思い上がっていなかった。植田の同意をえて七月十九日、副官だけをともなって飛行機で上京した。

ここから、参謀本部と関東軍参謀長の丁々発止の議論がはじまりますが、参謀本部の優柔不断と言うか無責任さが次第に明らかになっていきます。もちろん関東軍作戦課の好戦的なだけの議論は論外ですが、この議論については次回といたします。

 

 

野村駐米大使は日米小脳会談を一刻も早く実現すべく努力を重ねていましたが、アメリカ側では「双方譲歩することなく事態は行き着くところまで来ていた」と見ていました。

 

8月28日、野村大使とルーズベルトは再度会談をします。野村は、近衛からのメッセージをルーズベルトに手交、「一刻も早くハワイあたりで、首脳会談を開きたい」とこれまでと同様の意見を伝えます。

対するルーズベルトは法案を通過ざせる際に、大統領の不在は認められないため、長期出張は出来ないと主張。

「3日間ぐらいなら」というやや前向きな発言をしました。しかし、このルーズベルトの発言は、午後からのハルとの会談で、脆くも崩れ去ります。

 

同日午後、野村はハルとの会談に臨みます。ハルは日米首脳会談開催に関し「事前協議によって両国の了解がまとまってからでないと、真にもっとも憂慮すべきじたいを引き起こしかねない。」と述べ、事実上の首脳会談拒否を野村に伝えました。

野村は、ルーズベルトの前向きな意見から、一転したハルの発言に対し「「首脳会談の開催は至難の業である。」という重苦しい空気に飲み込まれてしまったのです。

 

野村は、日米小脳会談実現に並々ならぬ努力を注いでおりました。その裏付けとして、8月17日のルーズベルトとハルの会談後の翌日18日、相当な覚悟で政府に意見具申をしております。野村は、その際「日米交渉は長引く事は許されない、今まさに決着に到着せり。今チャンスを逃すと最悪の場合に進むべく、事態が救う事も出来ない状態に至る事は火を見るより明らか。」と語気を強めて、思い切った魂の底からの具申を行っていたのです。

 

その野村の意気もむなしく、日米首脳会談は、アメリカからの拒否で暗礁に乗り上げてしまいました。

一方、日米諒解案を作成し、一躍、日米交渉の表舞台に立った、岩畔豪雄、井川忠男のの非公式外交ルートの2名も、苦境に立たされておりました。

 

この頃日本政府と大本営は第一回の御前会議を昭和16年(1941年)七月二日の第一回に続いて第二回が9月6日第三回が十一月五日第四回が十二月一日に開かれています。

 

では肝心の独ソ戦の状況は当初の予想通りドイツ軍は9月にモスクワ攻略を目指し、クレムリンまであと十数キロのところまで迫ったが、例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪が進撃の足を止め、赤軍も猛抵抗したことによりドイツ軍の攻勢は頓挫した。

 

日本が根拠のないドイツ頼みをしているうちに状況はドンドン不利になっていきます。

 

 

最近、あちこちでいろんなセミナーや研修会の話しを聞きますが、私も昔はセミナー好きでしたが、その中で今でも憶えている苦い経験を今回は取り上げます。

 

私が昔、それこそ起業を考えていた時に人脈拡大をテーマにしたセミナーがありましたので、これは一度受けておいた方がよいだろうと思って参加申し込みをしました。

 

当時の私の人脈と言えば勤めていた会社の関係者が多く、私自身が見つけてきた人脈というのは友人・知人くらいなものだったので、もう少し人脈を広げる必要を感じていました。

 

ただ、セミナーや研修会でよくある隣の席に座った人と名刺を交換して3分ばかり自分のアピールポイントを話すという、やり方では、人脈につながるケースはなく、セミナーや研修会が終われば連絡などもない状態でしたので新しい接触方法を期待してセミナー会場へ向かいました。

 

人脈と言うと自然に形成される人間関係と考えていましたので、セミナー会場のチョット異様な雰囲気に違和感を覚えました。

講師の先生の質問等に積極的に手を挙げる人たちを見ているうちに、どうもサクラを会場に潜り込ませているようで講師の先生も苦笑いといったところで、私も漸く、このセミナーは周到に準備されたニセモノに等しいものであることが解りました。

 

これらのサクラに釣られて手を挙げる人もいましたが、大半は手を挙げる人は同じ顔触れで途中で私はアホらしくなって退席しました、人脈というものがビジネスを行う上で非常に大事なポイントであることは勿論、私も解っていましたが、それだけに人脈というものをネタにされたのがバカにされたように感じました。

 

人脈って今の時代ならAIやロボットなどの話しがあれば、何処からか自然に人は集まってくるのではないでしょうか。

人脈よりもビジネスアイデアを幾つか持って行けば人脈ができるかも知れませんが所詮儲け話に集るアリのようなもので人間対人間の触れあいと言うか魂の触れあいがあってこその人間関係・人脈だと思います。