日米諒解案を作成し、一躍、日米交渉の表舞台に立った、岩畔豪雄、井川忠雄の非公式外交ルートの2名も、苦境に立たされておりました。
アメリカでの交渉の打開がみえないと悟った岩畔らは
アメリカでの交渉の打開が見えないと悟った岩畔らは、7月31日、ワシントンを出発し、8月14日、日本に到着。
帰国後、近衛首相、外務省、陸軍省、参謀本部、海軍省、海軍軍令部、宮内省などの、日本の中枢機関のありとあらゆるところに足を運び、いわば最後の説得を試みました。岩畔の主張は簡単でした。
「アメリカの国力を相手に、日本が勝利する見こみは万に一つも無く、日米交渉は、続行するべきであり、他に日本の選択の余地は無い。」
というもので有りましたが、しかし時は既に遅く、今や、日本の中枢機関の見解は、日米交渉の行き詰まりから、日米交渉と主戦論を両天秤にかけている状況だったのです。
8月23日、岩畔は政策決定の最高機関となった政府統師部連絡会議に出席します。
岩畔は、これが、最後の機会であることを察し、相当の覚悟で臨みました。
岩畔は、アメリカで諜報活動をしていた、新庄健吉陸軍主計大佐からの報告書を基に、日米の国力の差を具体的な数字を挙げて、閣僚や軍令部総長、参謀総長に説明しました。
「アメリカの物的戦力表は、以下の日米の比率で明らかでありましょう。鋼鉄は1対20、石炭は1対10、石油1対500、電力は1対6、アルミ1対6、工業労働力1対5、飛行機生産力1対5、自動車生産力1対450であります。もし、日米が戦い、長期化したら勝算は全くありません」
岩畔の魂がこもった演説は、1時間半に及びました。しかし、この力説は、東条英機陸軍大臣によって、打ち砕かれてしまいます。
翌8月24日、岩畔に、東条が放った言葉は、
「その件はもういい。近衛歩兵第5連隊長に転出を命じる。」
というもので完全に日米交渉がをサジを投げた格好になりました。