ノモンハン事件に参加し力戦奮闘した須見新一郎氏は生き残っただけで陸軍を追われることになりましたが、須見大佐の指揮する第二十六連隊はどんな戦いをしたのかについて9月18日の続きで半藤一利氏『ノモンハンの夏』より引用いたします。

 

ハルハ河渡河作戦のために必要な軍橋は三本が必要であったが、渡河用の資材は中国戦線とられて関東軍の手持ちが底をついている状況で工兵部隊は訓練用の渡河資材を持っているだけで、架けられる軍橋は一本だけであり、これで大部隊(野砲や自動車)を渡そうということから渡河現場は混乱していました。

 

渡河現場が混乱している時にしばしばソ連軍機の機銃掃射うけ須見連隊長の焦燥はつのる一方でした。

そうしたときに小松原(関東軍第23師団、師団長)が現場に姿をみせたことを須見は手記に遺している。

須見はさっそく小松原に訴える。

「閣下!渡河作業はご覧のとおりです。私の連隊は、まだ第一大隊しか渡っておりません。この状況では全部渡るためには、おそらく日没になりましょう。どうしますか」

「よし!では与えられた任務を、貴官は渡河した第一大隊だけで遂行せよ」

 

とっさの思いつきに近い命令変更である。結果は、須見にとって無残なものとなった。

第一大隊以外の残余のトラックを師団専用に引き揚げられ、主力は徒歩部隊と様変わりさせられてしまう。須見は、先行した第一大隊を、徒歩で負わねばならなくなった。しかも小松原は、その後の行動について明確な指示を与えることもなく、高級車に乗ってさっさと橋を渡っていく。師団司令部の幕僚があとにつづいた。

 

それともうひとつ、須見の手記は面白いことを書きとめている。

東京の参謀本部の作戦部長橋本群少将が、お伴の参謀をつれて、この渡河作戦を現地で視察しているという事実である。無秩序の混雑を眺めながら橋本は、須見にこんなことを命じている。

 

「こんなときに、敵の飛行機が来たら‥‥‥敵機の来襲前に、貴官は、現在地の最先任者として、混乱を何とかしろ」

まさにその直後に、ソ連機が超低空で襲ってきたという。

 

この橋本の発言ははなはだしく筋違いである。須見の任務はいち早く橋を渡ることにある。大作戦を決行するのに橋一本、しかも渡河順位を不明確にしたままゆえの大混乱。橋本の発言は、関東軍作戦課のまったくなっていない作戦計画にたいする痛烈な批評、いや罵倒であったのかもしれない。

 

それにしても東京の作戦部長が戦場に姿をみせたのは、関東軍のお手並み拝見といった軽い気持ちなんかではないはずである。ところが橋本がこのとき、小松原と、あるいは関東軍作戦課の面々とじっくりと話し合ったという痕跡はまったくない。

これまた奇妙なことで、なんのための戦場視察であったのであろうか。

関東軍作戦課、東京の参謀本部といい、無責任の見本のような態度に終始していますが、私も現役時に営業現場が混乱した時の上司の態度・対応がまさに同じようなものであって、切羽詰まった状況に私も語気が自然と強くなって「貴方はそれでも営業現場を統括する責任者か」言うと「なるようにしかならない」という全く無責任極まりない言葉に、あっけにとられたことを思い出しました。

 

投稿時間が零時を過ぎてしまいましたので本来は10月2日の更新ですが、10月3日の更新となりますので明日は更新を休ませていただき、明後日10月4日からいつも通りの更新とさせていただきます。

ご了承のほどを、よろしくお願いいたします。

 

 

近衛首相が松岡外相に押し切られるような形で日米諒解案に対する日本政府の回答は引き延ばされたままの状態でした。

このような事態に対して野村大使をはじめ駐米日本大使館は一刻も早い日本政府の回答を待ち望んでいました。

今回は、この辺りの事情を見ていきます。

 

一方、日米交渉の実働部隊として動いている、野村吉三郎駐米大使をはじめ在ワシントン日本大使館の面々は、外務省本省からの連絡が一向に来ない事にしびれをきらしていました。

 

ついにアメリカ東部時間4月29日午後8時、日本時間の午前7時、非公式外交ルートの中心人物である井川忠雄は松岡邸に国際電話をします。しかし、松岡の言葉は、まるで木で鼻をくくったようなものでした。

 

井川の隣にいた、外務省在ワシントン日本大使館特別顧問、岩畔豪雄は松岡へ「こちらから送った魚(日米諒解案)は、至急料理しないと腐敗する恐れがあります。一同首を長くして魚を召し上がった感想を一日千秋の思いでまっております」と、早急な日米諒解案の承認と返答を促します。

 

それに対し松岡は「わかっちょる、わかっちょる。野村にあまり腰を使わぬように伝えておけ」と述べ、下劣で傲慢な態度を表しました。

これに対し岩畔は、日米諒解案の重要性を訴えるために、さらに食い下がります。

「1人合点は禁物です。あなたがそんなにのんきでおられるなら、魚は腐るに違いありません。腐ったが最後その全責任はあなたが背負わなければならないのですぞ」

 

かなり語気を強めて説明した岩畔でしたが、今や日本の外務大臣としてのプライドと驕り高ぶった松岡には、日米諒解案の真意など理解出来る思慮は持ってなかったのです。

結局岩畔は、松岡を説得できなかったのです。

 

「松岡はドイツから帰って、まるで人が変わった。」

これは、岩畔が後日語った事でありますが、これに関し昭和天皇、並びに近衛も異口同音の意見を述べております。

松岡の外交スタンスは、ドイツ、イタリアとの協調による枢軸路線であり、アメリカに対しては、「力の外交」とも云うべき強硬策を基準として「弱み」を見せない、毅然な態度で対応する方針を取っておりました。
 

ヨーロッパ歴訪後の松岡は、その外交スタンスに拍車が掛かったように見えました。

昭和天皇は、この松岡の豹変に対して、「おそらくヒトラーに買収されたのではないかと思う。現に帰国したとき、私に対して『はじめて王侯の様な歓待を受けました』と喜んでいた。」と証言しております。

 

松岡が豹変し、ドイツびいきになってしまった点、また日米諒解案の返事を引き延ばした理由を裏付ける証言が残っております。

 

松岡外相の豹変、日米諒解案の返事を引き延ばした理由については次回に見ていくことといたします。

 

 

 

 

 

この頃、私のまだ若かった当時に流行った歌を思い出すことが増えてきたように思います。

と言うことは、私がそれだけ老け込んだと言えるのかもしれませんが、あの頃は世代を超えて歌われた歌が多かったのではないでしょうか。

 

それに対して現在の歌と言えば若い女性の団体で何か歌っているのは分かりますが、私にはさっぱり響いてきません。

世代の違いと言われれば確かにそれはあるかもしれませんが、戦後昭和時代の歌というのは時代を反映していたようで誰が聴いても共感するものを持っていたのではないでしょうか。

 

戦後昭和時代の名曲と言えば挙げれば限がありませんが、チョット変わったところで私が最近特に思い出すのは天地茂と言っても今の若い人はもちろん、40代・50代の人でも知らない人もいるのかもしれません、連続テレビドラマ『非常のライセンス』と言えばご存じの方もおられるでしょう。

 

天地茂が歌った「昭和ブルース」という歌は『非常のライセンス』のエンディングテーマとして使われ主演の天地茂の歌が評判になったので同年8月にレコード化されました。

ドラマは天地茂の演ずる会田刑事が政治家や暴力団の巨悪に立ち向かってゆくというもので天地茂のニヒルな感じと歌の暗さが相俟って独特のイメージを醸しだし、人気を集めました。

 

どんな歌か、歌詞や歌を聴いてみたいと思われる方はネットで検索すれば出てきますので、歌詞だけでも見てください。

何か情感に訴えるものを感じられるのではないでしょうか。

 

同じ年代に流行った歌で、「昭和枯れすすき」という歌も私の好きな歌です。

これも暗い感じの歌ですが、歌詞の最初の出出しが何とも言えない雰囲気を醸し出しています。

歌詞や歌はネットで検索していただければ分かりますので、これも歌詞だけでも見てください。

 

戦後昭和時代の歌の中からチョット変わったところと言うか、暗い感じの歌を取り上げましたが戦後の昭和時代というのは敗戦のどん底から這い上がってくる気概のようなものが歌謡曲にも伝わっていたように思います。

現代の歌に、そのような気概があるのでしょうか?老いぼれのぼやきとして聞いてもらえれば結構です。