ハルハ河を渡河し国境を越えて進撃した関東軍ですが、ハルハ河を渡河する大部隊のための軍橋を一本しか持たなかったため渡河は混乱し混乱に乗じてソ連軍機の機銃掃射をうけましたが、何とか須見部隊も全将兵が徒歩でハルハ河を渡り終えました。

 

この後の状況については、10月3日の続きで半藤一利氏『ノモンハンの夏』より引用いたします。

すでの渡河した岡本、酒井の両部隊は、前進を開始して一時間足らず午前七時ごろ、激烈な戦闘に突入してのである。両部隊はともに、敵戦車との遭遇を予期しているから、正面と左右に戦車地雷と火焔ビンをもった肉薄攻撃斑、連隊砲、速射砲を配置して前進した。それでも前方の波うつ砂丘に隠顕しながら、ソ蒙軍戦車が突進してくるのをみたときには、将兵はしばし呆然となった。

 

その豪勢さ。二〇輌、三〇輌と群をなして戦車が、装甲車が、地平線の全周からわき起こってくるかのように急進してくる。

 

歩兵をともなわない戦車の殺到は、日本軍将兵にとっては、ある意味では闘志のかきたてられる戦いといってよかった。戦車だけを相手に訓練どおりに迎え撃つことができる。速射砲と連隊砲は必中距離の四〇〇メートル以内にひきつけて身を乗り出して猛射した。車体を貫通するとかならず戦車は炎上した。

岡本部隊の連隊旗手川添武彦元中尉は語る「こっちの速射砲と連隊砲と野砲の改良三八で狙い撃った。よく当たりましたな。これは勝ったという感じでした」

 

撃ちもらした戦車の突進を迎えて、つぎは歩兵対戦車の戦いである。

ソ蒙軍の切札である機甲部隊は、T26軽戦車とBT中戦車によって編制されている。ともにガソリン・エンジン装備であったから、榴弾でも命中貫徹すると発火した。炎天下を長時間猛スピードで走ってきているから車体は焼けていて、日本兵が肉薄して投げる火焔ビンでも容易に燃え上がった。空冷式になっているから戦車は内部へ焔を吸いこんで、一瞬にして内部は火の海となった。

 

日本兵は、戦車の死角は前後八メートル、左右四メートル以内と教えられていた。その死角にとびこみ、自陣に突入してきた戦車とともにつかず離れず走りまわり、銃眼や後部の機関部に火焔ビンを叩きつけた。

 

酒井部隊の戦闘詳報の抜粋。

「七時、敵は戦車十数台、砲数門をもって射撃し‥‥八時ごろ、敵戦車十一二台攻撃して来る。‥‥‥十時ごろ四十七台の敵戦車われを攻撃‥‥十三時ごろには重砲射撃を開始し、約百台の戦車逆襲し来れるも‥‥大部を擱坐炎上せしめ、その黒烟幾十条となりて天に沖し、あたかも日本海大海戦の絵巻物の如し」

 

須見部隊の状況は『実戦寸描』で、須見はその時の戦闘をこんなふうに描いている。

「広漠たる曠野では遥か地平線上に現出したときから敵戦車は之を望見し得る。

二千、千五百、千、射撃しない、唯敵重砲の思うがままに撃たれ放しだ。八百米に接近するのを待って(戦車砲分隊は)第一発を放った。実によく辛抱したものだ。その代わり第一発から必中を期している。‥‥併し乍ら敵戦車が八百米の平坦地を突進する時間はきまっている。その時間内に撃つ弾丸の数には自ずから限度がある。その射弾は陣地前百米で二輌の戦車を炎上したのであったが、尚残余の戦車は突進してきた‥‥」

 

ソ連軍戦車は時速約五〇キロで突進してくる。

戦車砲や速射砲での応戦のあとは、肉薄攻撃斑の挺身攻撃である。将兵は夢中になって火炎ビンを、自陣を蹴散らす戦車めがけて投げつける。火焔ビンの油の膜が燃えあがると、その炎の終わるころボッと音がして、すでに長距離の猛進で鉄板の焼けている戦車の内部から火が出る。黒煙がもうもうとのぼって焼けはじめる。

戦車がガソリン・エンジンの場合はまだ戦い方もあったのでしょうが、ディーゼル・エンジンになると火焔ビン攻撃も効果を挙げなくなっていきます。

この辺りの事情は次回からみていきます。

 

 

松岡外相が帰国後ドイツびいきになり日米諒解案を引き延ばした理由を裏付ける証言が残っております。

これは、外務省アメリカ局局長寺崎太郎の証言ですが、5月1日に松岡私邸にて、松岡と大橋と共に日米諒解案の検討を行った際、松岡は「日米諒解案の電報をドイツに内報する」すわち「ドイツにリークする」と述べたのです。

 

これには寺崎が即座に反応し徹頭徹尾反対します。

これに対し、松岡は「ドイツで心からなる歓迎をうけた行為に報いるためにもドイツに伝えるべき」と、明らかにドイツ側に買収された事を示唆する発言をしました。

 

寺崎は「この時期にアメリカを刺激すべきではなく、ドイツでの外国賓客の歓迎は、心が無く上司の命令であれば、事務処理的に行なわれて当然であり、これが内報の理由にはなりません。」と反対意見を述べ、松岡と口論になったと述べております。

 

結局、松岡が日米諒解案をのばした理由は、ドイツの反応を伺いたかったという事であり、実際、後日、ヒトラーの意向を聞いてから日米諒解案を松岡の解釈で改竄し、ワシントンの日本大使館に送り返すことになります。

 

さらに松岡は、5月3日のワシントンの野村に対し「ヒトラー、ムッソリーニrはヨーロッパ大戦における勝利を既に確信している。日本も独伊を裏切ることはない。今アメリカがイギリスに味方して参戦してもそれは戦争をいたずらに長引かせるだけであり、世界文明の荒廃を招くだけである。自重を求める。」という電報を送り、アメリカ合衆国国務長官、コーデル=ハルにそう通告しろと命令します。

 

また何を思ったのか「日米中立条約をアメリカに提案しろという事も伝えます。

これは、まさにアメリカに対する恫喝であり、また「日米諒解案」とは別の提案を持って行けという理不尽な命令でもありました。


この頃の野村は、松岡に対して相当不信感が募っており、「10人に話せば、10人に違って話す様な男であり、あんな男に少しの信用も出来るものではない」と、親しい友人などに漏らしておりました

 

また、それに対し松岡は、前述の通り、傲岸不遜な態度で外交方針をアメリカに伝えよと、たびたび訓電を野村宛てに送りましたが、野村によって、アメリカを刺激する内容のものを削除しアメリカ側のステートメント(口頭での声明)のうち、松岡を怒らせる様な件に関しては野村の手許に置いていたなど、全く松岡の意に反する野村の行為に対して、叱責をすることが多くありました。

 

この段階で、松岡は野村に対し、既に松岡自身の意志、発言を伝えるための『伝達者』としての役割しか求めておらず、『交渉者』としてたち振る舞いたかった野村との対立、そして意識のずれは、日に日に広がっておりました。

それは、松岡が、野村に、いわば三顧の礼で駐米日本大使に就任する様お願いをした経緯を忘れたかの如く、まさに野村に云った「少しの信用も出来ない」という事を体現する行為でありました。

 

それでも、野村は、交渉者の立場として自分の意志を極力、アメリカ側に伝えようとしました。

5月7日、野村、ハルの会談の際もこのスタンスを変えず、松岡の訓電によりアメリカを刺激するのは良くないと考え、ハルに「日米中立条約」の提案のみ伝えます。

この提案に対するハルの対応は至極当たり前で「これは、日米諒解案とは関係ない事案である」とし、意見を退けました。

 

さらに野村は、松岡からハル宛ての電報を手交しようとします。

この電報の手交は、野村の本意ではありませんでしたので、ハルに対して一言、「いろいろ良くない事も書かれていますが、手渡しますか?」と付け加えました。

ハルは「良くないことが、書かれているのならば、そちらでとっておいて結構」と返答し、受け取りを拒否しました。

 

実は、日米中立条約の提案そして、それ以外の松岡のアメリカに対する強硬且つ傲慢な内容が書かれた電報は、既にアメリカ軍の暗号解読斑が、ほぼ全文解読しており、既にハルは内容を知っていたのです。

 

これに対しハルは、「野村にそのことを悟らせない努力をする事が大変であった。しかし、この電報の内容を見ると、野村の発言は、まるで自分の言い分と正反対の証言を行う証人を見ている様な気がした」と後日回想しております。

 

この件に対して、フレデリック=モアー外務省在ワシントン日本大使館顧問は、「松岡の行動のために、野村自身がそう思っていなくても『二枚舌』を使っている様に思われている。」と後日回想しており、日本大使館も内情は、ほぼ同じような見識をもっておりました。

 

5月12日の野村、ハル会談では、野村が日本側から承認された「日米諒解案」を提示します。それは、三国同盟の堅持、アメリカの日中関係への介入拒否、武力による南進の示唆など、松岡の意見が色濃く反映された物に改竄されておりました。

 

今まで非公式外交ルートで、苦心して作った「日米諒解案」の努力を全て無にする様な内容に対し、アメリカ側は松岡版「日米諒解案」の返答を保留にします。

 

これを、保留にした理由。

それは、日米交渉に直接関わる事ではありません。しかし、間接的には世界情勢に対して、また日本にとっては、日独伊三国同盟、そして松岡の日独伊ソ4カ国協商を脅かす、非常に重大な出来事の勃発を、既にアメリカが察知していたからです。

 

 

 

本来は9月30日が日曜日なので、9月30日に「9月のブログ 方向性と検証」をすべきでしたが、どうしてもこれを書きたいいうものがあって「9月のブログ 方向性と検証」は一週間延ばすことにしました。

 

9月は都合により更新を休ませていただいた日が多くなりましたが、私自身は今までの月よりブログの方向性というものが、よりハッキリと示された月ではないだろうか、と思っています。

 

それは、このブログのメインテーマである“外知恵をカタチに”を今まではどのように取り組んでいけば“外知恵をカタチに”を具体的にすることができるだろうか、ということで、あるいみ日和見的と言うかご都合主義になっていましたが、見方を変えて「今自分が起業するとしたら」と言う記事で漸く“外知恵をカタチに”というテーマに取り組めるような気がしています。

 

もちろん、年齢も70歳を超えていますし、ましてや大腸癌でステージ4という身では起業するということが現実的でないのかもしれませんが、こういう状況だからこそ起業するとしたという仮説を立てることによって検証していくことでテーマに近づけるような気がしています。

 

売り物はなになのか、どんな人がそれを買うのかといった具体的な内容については、金曜日の“外知恵をカタチに”の中で具体化していければと思っています。

 

ブログの方向性という点では月曜日の”昭和の戦争”と火曜日の”敗戦間際の参謀本部と参謀”が漸くテーマ的につながりを持ってきたように感じています。

このようなテーマを題材

本来は9月30日が日曜日なので、9月30日に「9月のブログ 方向性と検証」をすべきでしたが、どうしてもこれを書きたいいうものがあって「9月のブログ 方向性と検証」は一週間延ばすことにしました。

 

9月は都合により更新を休ませていただいた日が多くなりましたが、私自身は今までの月よりブログの方向性というものが、よりハッキリと示された月ではないだろうか、と思っています。

 

それは、このブログのメインテーマである“外知恵をカタチに”を今まではどのように取り組んでいけば“外知恵をカタチに”を具体的にすることができるだろうか、ということで、あるいみ日和見的と言うかご都合主義になっていましたが、見方を変えて「今自分が起業するとしたら」と言う記事で漸く“外知恵をカタチに”というテーマに取り組めるような気がしています。

 

もちろん、年齢も70歳を超えていますし、ましてや大腸癌でステージ4という身では起業するということが現実的でないのかもしれませんが、こういう状況だからこそ起業するとしたという仮説を立てることによって検証していくことでテーマに近づけるような気がしています。

 

売り物はなになのか、どんな人がそれを買うのかといった具体的な内容については、金曜日の“外知恵をカタチに”の中で具体化していければと思っています。

 

ブログの方向性という点では月曜日の”昭和の戦争”と火曜日の”敗戦間際の参謀本部と参謀”が漸くテーマ的につながりを持ってきたように感じています。

 

このようなテーマを題材にすると戦争の事ばかりを取り上げているように思われますが、そうではなく、あの戦争は回避できなかったのか、また敗戦間際の参謀本部は、ある種の幻想に取りつかれていたのではないだろうか、ということを通じて戦後の日本の復興につながったように感じ、現在の日本をもう一度戦後復興活気を取り戻すためには必要なテーマであるとおもっています。

 

また個々の記事で私が書きたい記事は日曜雑感を通じて書いていくことにしていますが、9月30日の記事も、ある意味で古い人間の懐古趣味と言われるかもしれませんが、古い人間がいてこそ新しい社会というものの価値が問われるのではないでしょうか?

例えばキャッシュレス化は便利な反面、個人情報をどのようにして守るのか、ということは後回しになっているのではないでしょうか。