前回10月17日に抗がん剤を点滴して終り頃に急に左手が痒くなり赤くなっていたので看護師さんに聞いたところアレルギー症状ということで、アレルギー症状の点滴をしてもらって漸く手の痒みが治まりました。

 

昨日10月23日に病院で点滴(エルプラット)を調整してもらっているのに前回と同じ左手の痒くなり看護師さんに言うと腫瘍内科の先生に来てもらって診察してもらった結果、この日の抗がん剤の点滴は中止となりました。

 

次回の来院時に抗がん剤(エルプラット)の点滴をどうするか、腫瘍内科の先生と相談することにしています。

 

アレルギー症状としては、現状では左手の痒みぐらいですが、病院側ではアレルギー症状が出たことについて重く捉えているようで看護師さんによればアレルギー症状が酷くなれば入院することもあると言うことなので私は手の痒みぐらいなら大したことではないと軽く考えていましたが、アレルギー症状で今後の抗がん剤治療はどうなるか、を腫瘍内科の先生と相談しながら対応していくことにしました。

 

抗がん剤治療は副作用だけでなく、こういうこともあるのだなぁーと改めて思い知らされました。

 

思い知らされた、と言えば私の買った株も前回は下がり続けた株価が漸く前日比1円高で引けましたので、これからは上向きに転じるだろうと10月17日のブログには書いていましたが、翌日からは以前と同じように下げ続け買値の半値どころか100円台を維持出来るかどうかという現状で来周の水曜日には二桁台になっているかもしれません。

 

私の見通しが甘かったと言えば、それまでですが欲深でもう少し上値が見込めるだろうと思っていましたが、私の欲深を見越していたかのように株価は下げに転じて漸く反転の兆しを見せたと思ったら私の甘さをあざ笑うように100円台ギリギリの株価となりました。

 

しかし、ここまで下がったら損切して手放すということは考えていません、会社が倒産しない限り株価が0になることはありませんので仮に二桁台になっても、どこかで反転上昇すると思って期待しています。

抗がん剤治療もアレルギー症状など難しい問題はあると思いますが、解決法は必ず見つかるものと信じています。

 

それにしても、抗がん剤治療とと言い株価と言いコチラの思惑通りにはなかなかいかないものですね。

 

大本営参謀本部及び関東軍参謀の無責任と杜撰な作戦計画をノモンハン事件を通して、もう少し半藤一利氏の『ノモンハンの夏』より前回10月16日の続きで引用・紹介いたします。

小林歩兵団が戦線を整理して、撤退を開始したのは、七月四日の午前零時。しかしひろく展開し、各所で寸断された部隊の撤退行動は容易なものではない。敵戦車群の包囲化、企図を秘匿のために静粛に、北斗星を指針に北へ北へと歩きはじめる。

また攻撃してきた敵には、断々乎として応戦をする。殿(しんがり)軍となった須見部隊の最後の兵が軍橋を渡り終えたのは、実に二十九時間後の五日午前五時。

 

一部略

 

須見部隊の撤退にもふれておかねばならない。

ソ連側戦史は、四日の昼から夜中にかけて、日本軍は死力をふりしぼって抵抗したとある。そして、日本軍の最後の抵抗がやみ、渡河点へ退却していったのは五日午前三時であったと伝えている。

これは須見部隊の奮戦を物語っている。

乗車部隊の第一大隊を敵中深く残したまま、須見は命令であるからとさっさと撤退するわけにはいかなかった。

 

須見は、指揮下の兵を攻撃隊と救出隊とにわけ、第三大隊長指揮の攻撃隊の白兵突入に呼応して、救出隊が生き残りの第一大隊の兵にまず水を与え、すばやく死傷者を収容して引き揚げる作戦をとった。

みずからは攻撃隊と同行した。

 

この日本陸軍の本領とする銃剣突撃は成功した。攻撃隊は三度突撃をくり返し、血路をひらき、空がうっすらと白みかけるなかを、将兵は死傷者をかかえて、いそいで後退していった。

「傷者の運搬は、比較的容易であるが、一度息を引きとった即ち戦死者の運搬は実に重い。一人の戦死者を運搬するのに、徒手の兵四人を要する。二人で両脇から抱え、二人は両脚を支える」

 

須見の戦後の手記である。

「いっそ早く、自分に弾丸が中(あた)ればよい‥‥。そうしたら、胸中の苦衷は消散するであろう」

須見はそうも書いている。

関東軍の作戦参謀や師団長は現地の将兵の苦衷をしっていたのであろうか?

攻撃が失敗に終われば撤退を転進という言葉で誤魔化して失敗から何も学ばなかったことは、この後の太平洋戦争でノモンハン事件以上の惨状を呈することになっていきます。

 

 

アメリカ政府は4月14日の時点(1941年)でドイツのソ連侵攻を察知していました。

ドイツのソ連侵攻は日米関係にもおおきな影響を与えるもので、この辺りの事情を見ていきます。

 

独ソ戦の開始。これは日本、アメリカ双方にとって重大な意味を示しております。

日本にとっては、ドイツがソ連に侵攻する事により、松岡外相の描いていた日独伊ソ四カ国協商の構想が、ものの見事に破綻します。

これにより日本が今まで進めていた枢軸よりの外交にかなりのダメージを与える事が確定します。

 

一方、アメリカ側にとって日米交渉は、いわば、強力なドイツとの戦いに専念するための対日和平工作であるので、ドイツが、ソ連攻略に予想以上にてこずり消耗するようなら日本と和平を結ぶ意味合いは薄れます。

 

況してや、アメリカに対し強硬な発言を繰り返し、日米交渉を拗らせようとする松岡外相に対しての不信感も募っていたので、倣慢な松岡外相が控える日本との交渉はひとまず棚上げして、独ソ戦が始まるかどうかを見極めてからでも遅くはなく、もし始まれば、独ソ戦の帰趨(きすう)を見定めてからの方が日本に対し有利に交渉を進められるという事になります。

 

すなわち、独ソ戦は日米交渉に否応なく日本劣勢、アメリカ優勢の構図を作り上げる事になるのです。

6月21日、アメリカは日本がアメリカに手交し、そのままになっていた松岡版日米諒解案に対する回答を野村大使に手交します。

その内容は、日本に対して強硬なものに転じておりました。

アメリカは自衛の見地から、ヨーロッパ戦に参戦し得るが、日本はドイツに追随して参戦できないというような内容まで盛り込まれておりました。

これは、自動参戦条項を盛り込んでいる日独伊三国同盟と矛盾し、アメリカの挑戦と見なされるものでした。
 

また、中国問題に関しても重慶政府(蒋介石政権)を中国政府として指定しており、事実上、南京政府(汪兆銘政権)を否定しました。

日米の交易も、とりあえず日中戦争以前の貿易量までの回復はうたわれましたが、それ以上のものに関しては更なる交渉が必要となっておりました。

いずれにしても、この条件では、日本側は受け入れる事が出来ず、拒否をしました。
さらに、ハルはオーラルステートメント(口頭による声明)を公表。

その内容は以下のようなものでした。

 

「国務長官は、日米両国のより良き理解をもたらし、太平洋の平和の確立のために、日本大使とそのアソシエイツ(井川と岩畔)によって成された真剣な努力を高く評価し、会談全体を通じて彼らを特徴づけた正直さをも評価する次第である」

と、井川、岩畔、野村の3人の努力を高く評価するものであり、一方松岡に対しては、「政府の有力なる地位に有る日本の指導者が国家社会主義のドイツ及びその征服政策に抜き差しならざる誓約を与えている、そのような者が指導者として世論を動かしているようではいくら交渉しても実質的な結果を収めることには幻滅を感じるだけである」

と強硬な態度で断罪しました。

 

ドイツのソ連侵攻を日本政府は知っていたのでしょうか、知らなかったとすれば、松岡外相、近衛首相はヨーロッパ情勢について関心がなかったと言うよりも所詮はドイツ頼みと言うことだったのでしょうね。