ノモンハン事件は関東軍が仕掛けた戦争ですが、この戦いのもう一方の主役はスターリンです。

モスクワのスターリンの動きを半藤一利氏『ノモンハンの夏』より引用・紹介いたします。

三宅坂上で井本参謀が「徹底的にソ軍を撃破し」と手帳に記しているころ、クレムリン内のスターリンは逆に徹底的に関東軍を撃破してやろうとの強い決意を固めていた。

七月を迎えてすでに二週間、ベルリンからはなんのシグナルもなく、チョビ髭の独裁者は音無しの構えを崩そうとはしない。

 

しかし、まったく外に出ず内に潜むこととなれば、スターリンは世界の指導者のだれにも負けない忍耐強さをもっている。かれの唯一の独裁はの方式は秘密であり、公衆の前へ出て大演説をぶったりすることではなかった。軽はずみに動いて、ヒトラーがその申し入れを蹴ったとしたら、コミンテルンンの盟主としての地位は失墜するかもしれない。

 

それどころか、ヒトラーに東ヨーロッパで自由行動をとらせる口実を与えることにもなる。

そこで三流どころの部下の外交官を使い、ナチス・ドイツの足の裏をそれとなくくすぐるが、みずからはカーテンの裏にかくれることにスターリンは徹した。

 

ドイッチャーの言葉を引用すれば、「当分の間かれは、数匹の猟犬で兎を追わせながらも兎とともに走って、猟犬のなかに自分がいることを、兎に感づかれないように」巧みにみずからを律していた。

しかし、そうしているかんに、ヨーロッパには戦争の気運がぐんぐん拡大しつつあった。

 

フランスは動員を開始した。イギリスもまた褌を緊(し)めにかかっている。七月中旬には、海軍臨時演習の実施が発表され、予備の艦船がつぎつぎに就役する。

それはヒトラーにもはや譲歩のないことを誇示し、われには戦争の準備が進んでいると知らせていた。

 

それだけに、地球儀でアジアのほうをみるスターリンの目は真剣さをました。

ハルハ河西岸での戦闘で、ソ蒙軍の戦車がかなり手ひどい損害をうけたことも報告されている。

このさい、さらに兵力を増強し、二度と余計な渡河攻撃を思いたたせないほど、うるさい関東軍を叩きつけておくことの重要性、スターリンは改めて認識したのである。

スターリンはヨーロッパの情勢を気にしながらドイツに目を向けるか、或は英仏に目を向けるかを考えていましたが、8月23日にヒトラーと結ぶことにして独ソ不可侵条約を結んでいます。

 

 

 

アメリカのハル国務長官はオーラルステートメント(口頭による声明)で日米和平交渉を妨害した松岡洋右外務大臣を強硬な態度で断罪しました、これは、アメリカは無線傍受と暗号解読分「マジック」によって松岡とヒトラーの関係を知っており「その件について、こっちはお見通しだ」と云う事を、松岡を始め日本政府に伝えるメッセージでもあったと云えます。

 

このように、アメリカが日本に対し強硬にでた理由は翌日わかります。

現地時間6月22日午前3時15分、ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下に独ソ不可侵条約を破り、ソ連に奇襲攻撃をしかけます。

独ソ戦が始まったのです。つまり、アメリカはドイツのソ連侵攻を察知した為に、日本との交渉の際に強硬な態度に出たのです。

明らかに日米交渉の風向きが変わった瞬間でした。

 

一方、日本では、独ソ戦開戦の前日、6月21日、木戸幸一内大臣、平沼騏一郎内務大臣、近衛文麿首相が会食を行い、松岡の最近の言動、また国外情勢について懇談をしました。

その中で、3人の共通認識として、「松岡の言動は真意がわからず、補足しきれず内閣不一致の恐れがある」と互いに確認し、松岡が原因による近衛内閣の行き詰まりを示唆します。

 

6月22日、日本にも、独ソ戦開戦が伝えられます。この開戦の報は、日本政府に大きな影を落とし、特に松岡に対し、痛烈な一撃を与えます。ドイツで王侯貴族の様に歓迎されたと、嬉々として周囲に語っていた松岡は、あっさりとヒトラーに裏切られたのです。

 

これにより松岡の構想した日独伊ソ四カ国協商の夢が潰えたのみならず、ユーラシア大陸を一つの絆としてまとめたと自ら宣揚した事についても、近衛内閣の閣内、閣外双方から批判を浴びる事になります。

さらに、ドイツ歴訪の際、リッペントロップ外務大臣そしてヒトラーに独ソ開戦の企図について、口止めされていたことも発覚。独ソ開戦の可能性を内閣に伝えなかった謗りも合わせ、松岡オイダシ論に発展します。

 

その追い出し論に対し、火に油を注ぐ様な行為を松岡自らが行います。

この独ソ戦開戦に際し、松岡は昭和天皇に謁見し、なんと自ら半ば独断で結んだ『日ソ中立条約』を、締結後わずか2ヶ月で破り、イルクーツクまで進軍させるべしと言上したのです。

これには天皇陛下も国際信義にもとる行為と無視できず、近衛に松岡の罷免を要求しました。しかし、近衛の態度は曖昧で、結局罷免はしませんでした。

 

また7月2日の御前会議では、最後まで南部仏領インドシナ進駐に反対、頑なに、日ソ中立協定を破棄し、ソ連に進駐すべしと主張し、陸海軍量統帥部からも非難を受ける様になります。

 

その追い出し論に対し、火に油を注ぐ様な行為を、松岡自らが行います。

この独ソ戦開戦に際し、松岡は昭和天皇に謁見し、なんと、自ら半ば独断で結んだ『日ソ中立条約』を、締結後わずか2ヶ月で破り、イルクーツクまで進軍させるべしと言上したのです。これには、天皇陛下も国際信義にもとる行為と無視出来ず、近衛に松岡の罷免を要求しました。しかし、近衛の態度は曖昧で、結局罷免はしませんでした。

また7月2日の御前会議では、最後まで南部仏領インドシナ進駐に反対、頑なに、日ソ中立協定を破棄し、ソ連に進駐すべしと主張し、陸海軍両統帥部からも非難を受ける様になります。

 

今回は松岡洋右外務大臣の日独伊ソ四カ国協商構想が独ソ戦開戦によって破綻したことについてみていきました。

 

 

最近、思うのは若い頃に比べて旅行などに関する好奇心が薄れてきたように感じています、一頃は結構海外旅行にも行きましたが齢の所為か、この頃は海外旅行どころか国内旅行にも関心が薄れてきました。

 

海外旅行や国内旅行のパンフレットを見ても特に興味をそそられるということもなくなりましたが、好奇心そのものに関しては別に関心が薄れたわけではありませんが、若い頃は何でも体験しなければ分からないものだと思っていましたのでアチコチと出掛けていました。

 

最近は大腸癌を患っていることもあって遠方に出かけることは控えていますが、友人と一緒に近所の史跡などを探訪することもあります、最近では枚方の樟葉台場(砲台)跡地を訪ねたりしています、樟葉台場跡地といっても公園のようになっているだけで何にもありませんが文久3年(1863年)、京都守護職である会津藩主松平容保は外国船が淀川を遡って京都に攻め込んで来ないように淀川の両岸に台場を建築することを建白し、勝海舟が奉行となって建設を始めました。

 

しかし、、実際には長州藩などの反幕府側の人物や過激派を京に入れさせないための関門であり、要塞であった。

淀川右岸には高浜台場、少し奥には梶原台場が造られ、左岸の樟葉台場は慶応元年(1865年)に完成しています。

 

樟葉台場跡地を訪れても当時の様子が分かるものは何もありませんが、当時の様子を想像しているだけで幕府側と反幕府側との思惑などを思い描くだけでも好奇心を刺激されます。

 

今は出掛けられる状態なら出来るだけ出かけるようにしていますが、やはり体調によっては出掛けるのを躊躇せざるを得ない時もあって、そんなときは私の好きな幕末から明治にかけての本を読むのが楽しみになっています。

 

好奇心を持って本を読むのは、自分で興味のあるテーマを見つけ、いろいろと探求していく面白さが本を読む探求心の原点だと思っています。

好奇心と言うと興味の赴くままに動き回っていることを想像しますが、興味のある本を深堀するのも好奇心の一つではないでしょうか。