“大腸癌(ステージ4)と株式投資”というテーマで今年から始めたテーマですが、株式投資で何とか元気を貰えれば癌の治療にも効果が見込めるのではないだろうか、という取らぬ狸の皮算用と言うか自分に都合のよい解釈を思惑買いで買った株は当初は順調に思惑通りでしたが230円どころで買った株が300円台半ばに乗せた時、売っていれば今頃こんな愚痴をこぼさずに済んでいたと、思うと自分の甘さを思い知らされています。

 

大腸癌の方も特に体調が悪化しているというわけではありませんが、先日病院の腫瘍内科に行ったおり、癌が少し大きくなっているとのことで抗がん剤を変えることにしました。

血液検査や尿検査の結果は今のところ異常がないので、今までよりも強めの抗がん剤を点滴ではなく、家で朝夕に服用するように言われました。

 

がん治療については、いろいろとあると思いますが、私が診てもらっている腫瘍内科の先生の考え方で今まで治療してきました、私を担当する腫瘍内科の先生を信頼していますが、癌治療については、いろんな見方・捉え方が新聞やネットなどで紹介されていますが私自身は今の標準治療というものを、やりながらセカンドオピニオンを利用して大腸癌(ステージ4)の治療の多様性を他の病院の先生にも聞いてみることにしています。

 

セカンドオピニオンを受けたからと言って現在受けている標準治療よりも効果が望めることがあれば嬉しいですが、担当医の理療方針を第一とすれば、標準治療でも、抗がん剤の組み合わせによって、こういう治療方法もあるということを聞きたいためにセカンドオピニオンを受けようと思っています、別に現在の担当医が信頼できないとか治療方針に不満があるということではなく飽くまでも癌治療の多様性ということに期待しています。

 

抗がん剤治療のセカンドオピニオンに比べ今の株にも、そのような制度があれば、と思うものの株式投資は飽くまでも自己責任に基づいて行うもので人に相談したからと言ってどうにかなるものではありません。

人に相談や人の意見を基に株式投資をした結果が今の状態と言えのかもしれません。

 

株式投資で元気を貰うつもりが逆に癌治療の方から今は元気を貰っている状況なのかも知れません。

株はいくら下がっても命までは取られないと考えれば、癌に比べれば株式投資なんて、どうこう言うほどのものではないと思っています。

 

 

ノモンハン事件で関東軍は大敗をすることになる昭和14年(8月)までの経緯を、半藤一利氏の『ノモンハンの夏』よりみていきます。

関東軍はソ連は国境紛争を大興安嶺を越えて満州北部の中枢部にまで拡大するの意図あり、と速断していました。

事実からみれば、スターリンにもジューコフにもそんな目論見はない。

ただ七月半ばころからおもむろにソ連空軍が優位に立ち攻勢を取り始めた。空中戦には圧倒的な強さを示していた日本航空隊ではあったが、重なる戦闘に披露が骨身に徹している。

ソ連空軍はそのことを察知できた。

 

それに鈍重なイ15、イ16といった旧式機にかえて、強力な砲を装備した新型イ16チャイカと新鋭の局地防衛機が送りこまれてきた。しかも日本陸軍幾との交戦の経験を重ねるにつれて、日本機の特性と戦法(単機格闘)とを知り、ソ連空軍はそれに対応する戦術もあみだした。編隊で高空から急降下射撃しながら加速を利用して離脱する“垂直一撃離脱戦法〟ともいうべきものである。

 

さらにソ連空軍は燃料タンクなどへの防弾装備をいちじるしく改良した。

日本戦闘機の七・七ミリ機銃の一連射か二連射で火を吐いていた機が容易に墜ちなくなった。搭乗員の死傷率はがぜん軽減され、これがかれらを勇気づけ反攻に勢いづいた。

 

対して日本機搭乗員は撃墜による損害はもとより、被弾損傷や不時着事故などによる消耗ははげしかった。

六月二十七日いらい、もっぱら迎撃作戦をとっていたが、七月中旬ごろより、それまで思う存分に「墜しまくった」日本航空隊の力には、明らかに限界がみえはじめている。人と機ともに疲労の色がこくなりはじめる。

 

新手の敵を迎え撃って日本機は一日に五回も六回も出動するのであるから、いくら格闘戦の名人芸を誇っても、戦闘力が自然と低下するのはとめることができなかった。

 

ソ連空軍のボロジェイキン中尉は回想録に誇らしげに記している。

「敵飛行場にたいする爆撃の成功は、日本の搭乗員たちに精神的、肉体的圧力を加え、制空権をソビエト空軍の手に獲得することを可能にした。当時、西欧のどこの空軍にもなかった対空ロケット弾を装備したイ16も登場した。夜間爆撃機TB3の行動も積極的に開始した」

 

この夜間爆撃機は空中偵察にも使われている。フラルキ鉄橋にあたかも挑発するかのように投弾したのは、この機であったかもしれない。

ソ連軍は空軍力を増強するとともに新鋭機への入れ替えや防弾装備をいちじるしく改良し日本軍機の戦法から、新たな戦法を編み出し日本空軍を圧倒し始めました。

日本軍と言うよりも関東軍はソ連空軍のフラルキ鉄橋への爆撃に国境紛争から満洲国への攻撃ととらえて参謀本部に対ソ強硬作戦を意見具申することになります。

 

 

 

日本はアメリカから石油を輸入しているのにアメリカが警戒する南部仏印進駐を計画し具体化させていきました。

日本は南方の資源確保が出来れば、という思惑に取りつかれていたのではないでしょうか。

 

もし、アメリカ、イギリス、オランダが戦争を決意し、南部仏領インドシナに強固な拠点が築かれた場合、日本の物資調達ルートが分断される可能性が高く、その先手を打つために、進駐を計画したのです。

この日本の南部仏領インドシナ進駐は、日米交渉に冷や水をぶっかける事になります。

 

日本では七月二日の第一回御前会議において、日本は何を決めたのか。それが重大事です。

「帝国は大東亜共栄圏を建設し‥‥支那事変処理に邁進し自存自衛の基礎を確立するため南方進出しの歩をすすめ、また情勢の推移に応じ、北方問題を解決す」

 

簡単にいいますと、日中戦争の処理はどんどん進めていく、自存自衛の基礎を固めるために南方に進出し、。同時にドイツの攻撃によって生じる情勢如何によっては北方の、ソビエトの問題も解決する――要するに、松岡外相の強硬な主張にのっかりながら南へは進出する、北も都合によってはやろうじゃないか、というものです。

そして肝腎(かんじん)なのは次です。

「本目的達成のため対英米戦を辞せず」

 

国家として戦争決意を公式なものとした、運命的な決定であったと思います。

ただし、この頃、アメリカは前にも述べたとおり、日本の外交暗号の解読に成功していました。

「パープル(紫)と呼んだ外交暗号をアメリカが解読し始めたのは、現在では、前年の昭和十五年十月頃といわれています。なんと、日本の外務省が使う九七式欧文印字機とそっくり同じような暗号変換器を八台つくって解読に励んでいたのに、日本政府はそれに全然、気付いていませんでした。

 

とにかく日本がドイツやイタリア、ワシントンの大使館に打電した秘密電報は全て傍受解読されていたことになります。

したがって七月二日の御前会議での決定も、外務省がワシントンンに知らせた途端に「なに?日本は対英米戦を辞せずと?」という具合でした。

 

そんなこととは知らない日本は、この御前会議の決定に基づいて「いよいよ南進だ」と、七月二十三日、北部仏印でとどまっていた軍隊を、南のサイゴンおよびその近辺に移動させる、あるいは船で海から上陸させることを決定します。

それと同時といってもいいくらいの七月二十五日、アメリカは日本の在米資産(日本がアメリカに持っている資産)をすべて凍結すると発表します。

 

ただちにイギリス、フィリピン、ニュージーランド、オランダもこれに続き、各国にある日本の資産は凍結され運用できなくなりました。

完全な包囲網が敷かれたわけです。しかしそれにも一切構わず日本は予定通り七月二十八日、南部仏印上陸を開始する。その途端です。八月一日、アメリカは石油の対日輸出の全面禁止を通告してきました。

 

日本の南部仏印進駐がアメリカを対日戦を覚悟させたことは明白ですが、これに対して日本政府はアメリカにどのように対応したのでしょうか。

次回はこの辺りを見ていきます。