参謀本部は紛争を長引かせたくないのに対し現場の関東軍作戦では強気な意見を参謀本部に意見具申しています。

それは、ただの一機から投下されたわずか八発の爆弾である。

一説には一発ともいう。損害はほとんどなかった。

 

それにも関わらず、関東軍はソ連軍の総攻撃の可能性大なりとしていました。

この関東軍作戦課と参謀本部のやりとりについては半藤一利氏の『ノモンハンの夏より』から引用致します。

ただの一機から投下されたわずか八発の爆弾である。一説には一発ともいう。損害はほとんどなかった。

しかし、関東軍作戦課は震撼した。それまでに得たいろいろな情報に照らし合わせて、ソ連軍の満州国境にたいする総攻撃の可能性がすこぶる大なり、と関東軍は憂慮し、.極度に緊張したのである。

ただちに麾下の全軍に戦備強化を指令すると同時に、作戦課は参謀本部にたいして対ソ強硬作戦、とくに外蒙古領の敵飛行基地爆撃の緊要を意見具申した。発信は十六日午後五時三十分。

 

そこには六月二十七日のタムスク爆撃いらい、国境外への爆撃行を参謀本部より禁じられている関東軍の怨念もこめられていたようである。とくに辻(政信)には恨み骨髄に徹するような激情ががあった。敵機はハルハ河を越えて再々攻撃している。それなのに「我はハルハ河を越えて爆撃することは、大命で固く禁ぜられている。脚を縛って走らされる苦痛に、飛行隊はどんなにくやしかったであろう。ああ、.東京が怨めしい。

足枷手枷を外してくれたらと、毎日天を仰いで嘆息する日が続いた」と手記に書いている辻の参謀本部作戦課への宿怨が逝け具申に(署名・軍司令官、起草・辻)にこめられていた。

 

「‥‥以上の情勢に鑑み、敵機の跳梁をを看過する時は必ずや敵の軽侮を招き、事態を悪化せしむるの傾向歴然たるに鑑み、軍は外蒙古空軍をその根拠地(タムスク、サンベース、マタット)に急襲撃滅すること極めて緊要なりと信じ、謹みて意見具申す」

 

これまでの関東軍の東京軽視の無礼な態度からみれば、いきなり「謹みて意見を具申したことが、東京ではどうとられるか、辻は考えなかったのであろうか。またからかってきた、とか、ことさら丁寧なのはかえって無礼な申し条、とか思われる可能性は大いにあった。それを承知で辻は起案したのであろうか。

 

それとも本当にその緊要性を訴えんがために、身を謹んだのであろうか。意見具申電の結びはこうである。「中央部においては国交断絶をも辞さない強い態度をもって、外交交渉をリードせられたし」

国交断絶とはすさまじい。敵にも味方にも、もう喧嘩腰である。翌十七日午後、参謀本部は意見具申は採用しない旨の長文の電報を、関東軍に打ち込んできた。

ヨーロッパ情勢がドイツをめぐり不穏な動きをみせている時だけに参謀本部としては、より慎重な対応が求められるのに対して報復の念に燃える関東軍作戦課は対ソ攻撃だけを念頭においていました。

 

1941年(昭和16年)7月28日に日本陸軍は南部仏印進駐を開始し、1941年(昭和16年)7月28日に日本軍は南部仏印進駐を開始し、8月1日にはアメリカは対日石油禁輸を決定します。

 

このような緊迫した情勢下、ワシントンの野村大使は何とか日米諒解案に望みをかけていました。

アメリカ東部時間、昭和16年(1941年)7月24日午後5時。駐米日本大使野村吉三郎とアメリカ合衆国大統領、フランクリン=ルーズベルトによる3回目の会談が、内密に行なわれました。

 

野村は、仏領インドシナ進駐に対し、「日本の経済自活上、且つ、同地域の安定上、止むを得ぬ方針で、駐兵も永久的では無い」と述べ、依然「日米諒解案」を基準とした、交渉を続ける意志をルーズベルトに伝えます。

 

これに対しルーズベルトは、「アメリカ国民は、対日禁輸政策を強く主張してきたが、それを宥めて、日本に石油を与える事が、太平洋の平和につながると、今日まで説得してきた。しかし、日本は、仏領インドシナ進駐と南進を進める勢いではないか!!」と怒り、石油の対日禁輸もあり得るとほのめかしました。

 

それを受け、7月25日、アメリカはまず、在米日本資産の凍結を決定。事実上の日本の海外通商の禁止と、在米日本人の生活をも脅かす、強制措置を行いました。

 

そして、日本側が7月28日に南部仏領インドシナ進駐を開始したことに対抗し、ついにアメリカは8月1日、日本を含めた全侵略国に対する、石油輸出全面禁止措置を執ります。

このアメリカの禁輸措置は、まさに昭和天皇が予見していたとおりであったと言えます。

 

これにより、日本の統帥部、特に海軍の戦争に対する議論が変化をします。

もし、アメリカ以外からの石油の調達が困難な場合、石油備蓄があと2年しか持たない計算となり、早期に戦争を開始しなければ、手も足も出なくなると云う結論に達したのです。

つまり、海軍は積極的戦争反対論から消極的ではありますが、開戦論へと変化をせざるを得なくなったのです。

 

このアメリカの石油禁輸措置に対して「えっ、まさかそこまでやってくるとは」と海軍の何人かは言ったそうですが、アメリカに対する見方・考え方が甘かったとしか言いようがありません。

石油がないから戦争すると言うのも可笑しな話ではないでしょうか。

 

 

私は今年3月で71歳になりました。

子供時代の三輪車に乗って笑っている写真をみていると、現在の私が想像できません。

まだ、ホントに小さな時分で、あの頃はただただ毎日を楽しく遊べたら十分に満足していました。

 

小学校に行くようになってから、勉強は宿題ぐらいは何とかやっていたと思いますが、ほとんどの時間は遊びに費やしていましたので毎日、学校へ行くのが楽しみでしたが小学生になると子供時代と違って近所の遊び友達とは組みが離れてしまいガキ大将のような奴が組みを仕切っていました。

 

そういう奴らと喧嘩することが、ほぼ毎日で給食に出るパンは今のパンとは比べ物にならないくらい硬いパンで半分くらい食べて後はカバンに詰めて家に持って帰る予定が小学校の校門を出ると硬いパンの投げ合いをしていました。

当時の給食については食べられるものもありましたが、硬いパンと一緒に出てくる粉ミルク(脱脂粉乳)だけは飲めたたものではなく口だけ付けて後は残していました。

 

小学校から中学生になると近所に引っ越しして来た生徒がいて、そいつは学業優秀な上に野球も上手で、いつも一緒に自転車を持っているので後ろに乗せてもらうのはいいのですが、朝、私がおはようと言ってから一緒に家を出るのに時間がかかり学校に着いた頃は朝礼がはじまっていて裏口から入ろうとすると遅れて来た生徒をチェックする先生がいて一度目は見逃してくれるのですが二度目は朝礼台の上に立たされて遅刻の常習犯ときつく叱られました。

 

今、考えると中学校時代が一番楽しかったように思います。

そんなこんなで私は自分の進路というものが具体的に考えていなかったので普通高校に進学するつもりでしたが親父は工業高校へ行かす、ということから工業高校へ一度見学に行ったことがありますが、普通高校と全く違って工場のような感じを受けて私自身は乗り気ではありませんでしたが、親父が工業高校でないと普通高校には行かせない、と言い張るもので仕方なく工業高校へ行くことになりました。


工業高校では皆、自分の進路というものをハッキリ持っているのに対して嫌々ながら工業高校に入った私は自分の進路というものが曖昧なままでした。


やがて卒業を迎え大学進学するものはほとんどいなく、ほぼ全員が就職することで担当の先生と進路相談をしていまして私にもどんな会社に行きたいかと言われて特に希望というものがなかったので、サラリーマンになる予定で、ある会社(大手の会社)を紹介してもらいました。

 

それで家に帰って親に話すと親父は頑として自動車会社に行けと言うばかりで当時は自動車会社が花形だっただけに

親父の言うことも解らぬではありませんが当の私は全く自動車関係に興味がなく普通のサラリーマンでもなるか、言った具合だけに結局、親父に押し込まれて自動車会社へ行くことになりました。

 

当時の自動車会社と言っても地域の販売代理店で私のような工業高校から来たものは下済みという(ぼんさん)修業からが仕事の中心でトラックのボルトの増し締めからエンジンオイルなどのオイル交換とグリス入れでした。

 

今考えると、まぁーこの辺りから私の人生航路がすこしづつあらぬ方向に変化してきたように感じています。

勿論、私自身が自分の進路というものを具体的に考えていなかった所為によるものと思っています。

 

人生残された時間をどう生きるか、ということを考えた際にふと自分の子どもの頃から工業高校卒業までを思い起こしてみました。