アメリカから日本の南進政策に対して日本への石油禁輸措置を執ったことで日本には2年ほどしか石油備蓄がない、という事情から日本海軍は戦争反対論から消極的ながらも開戦論へと傾きます。

このような行き詰まりの中、近衛首相は、日米諒解案に明記してある、ある項目に注目し、これを実現すべく、木戸幸一内大臣に覚書を提出します。

 

近衛が注目した点は、日米諒解案の最後に書かれてあった、ホノルルでの日米首脳会談の実現でありました。

8月5日(1941年)、木戸の元に近衛が構想した、ルーズベルトとの会談の覚書が届きます。

その内容を、要約、抜粋すると、

 

「今日までの日米交渉は、日米双方の真意が徹底していない感があり、誤解と行き違いがあった。このままズルズルと、戦争に入る事は、『世界平和』(特に日本の国交)をおもんばかる、天皇陛下に、為政者として申し訳が立たない。もし、尽くすことを尽くして戦争になった場合は仕方がない。日米関係は既に危機一髪であり、野村大使を通じての交渉は時機を失する恐れがある。そこで自分が、ルーズベルトに対し会見を申し込もうと思う。その際は対米戦争も覚悟の上であり、もしこの会談が不調に終わっても、日本国民に対し、日米戦は止むを得ずとの覚悟を促せるし、また、世界に対しても侵略ではなく、太平洋平和維持に誠意を示したとアピールも出来る。これは、ルーズベルト大統領が、ホノルルに来る事について諒解案に明記しているので実現不可能とは思わない。また、話し合いを絶望視する事もなく、対立はしているが、妥協点を見いだせる点もある。また、独ソ戦は、9月には峠が見える。9月の段階で、独ソ戦が膠着した場合は、アメリカは日本の話に耳を貸さない。つまり、会談は急を要する。なお、アメリカに、屈服は決してせず、この話し合いで決着をつける。」というものでした。

 

近衛が、ここまで首脳会談に拘った理由。それは、独ソ戦の成り行きに対する誤算からでした。

 

近衛は、独ソ戦開戦直前に、駐日ドイツ大使館を通じ、リッペントロップドイツ外相から電報を受けておりました。

その内容は「万が一独ソ戦が起こった場合、かかっても2ヶ月~3ヶ月程度で作戦は完了する。この点については、私を信頼して欲しい」

というものでした。また、大島浩駐ドイツ大使を介しての談話ですが、ドイツ首脳は、この独ソ戦の期間を4週間程度で終結すると見ており、これは戦争ではなく、一種の「警察活動」であると云う見解を、近衛に伝えておりました。

 

近衛は、後日、独ソ戦開戦により、日独伊ソ4カ国協商が破綻した今こそ、三国同盟の再検討を行う為、ドイツとの再交渉のチャンスの余地はあったことは認めましたが、リッペントロップの発言とドイツ首脳の見解を真に受けてしまった点、またドイツの緒戦の快進撃を信じ切ってしまったため、ドイツとの交渉を一切しませんでした。

その結果、独ソ戦が決着を見ない今、アメリカとの日米交渉を成功せざるを得ない状況へと自ら追いやってしまったのでした。

 

近衛首相の決断が、もう少し早ければ日米交渉は上手く運んだかも知れませんが、北部仏印進駐だけでなく南部仏印進駐まで、やってしまってからアメリカから石油禁輸を突き付けられ対米戦も止むなしという状況の中でもドイツを信頼していたというよりもドイツ頼みの政策が政府・統帥部の考えだったと言えるのではないでしょうか。

 

 

私のブログを読んでいる人は既に勘付いているかもしれませんが、天邪鬼・へそ曲がりの性格が記事の文中に窺えるのではないでしょうか。

私自身も天邪鬼・へそ曲がりということは他の人に比べても、そういう性格なんだと思っています。

 

ただ、人が右と言えば左ということもありますが、私の場合、言い訳するわけではありませんが、なぜ右なのかを考えてみて納得出来れば右ということが多いように思います。

 

皆が右と言うから私も右ということには何故か左ということもあるのではないでしょうか、と言ってしまって波風を立ててしまうことがあります、例えば、本屋さんにいけば『なぜ一流の人は〇〇』という類の本が結構多くみられますが、こういう本を見ると私の天邪鬼・へそ曲がりの性格がムラムラと湧き上がってきて、何を以て一流と称しているのか、また、「なぜ」という疑問詞を最初に持って来るところに違和感があります。

 

昔の話しですが私が工業高校を卒業し自動車整備士として、ある自動車ディーラーに勤めて4~5年経った頃の話しですが、親会社の方から全体の研修会議というものがありましてABCDというグループごとに研修を受けることになり私はDグループで研修をうけることになりました。

 

ABCDというグループ分けは会社から見て優良な社員をAグループとしてBCDのランク付けになっていました。

私のランクが最下位のDランクというのは会社の見方ですのでDランクでも何でも好きなようにしてくれという気持ちで大体ランク付けして親会社の方から研修するという、やり方が気に入らなかったのでDランクの研修の冒頭に自己紹介があり、私の番が来た時に「優良社員の多い中で不良社員の一人〇〇です」と言った途端に場の空気がガラッと変わって研修の先生も、その場を取り繕うのに苦労したようです。

 

これには後日談があって研修を担当した上司からは、なぜあんなことを言ったのか、しつこくアレコレと言われましたので最低ランクに入っているのなら優良社員でなく、不良社員なのだから正直に言ったまでのことです、と言ったら上司はコイツに何を言っても仕方がないという顔で仕事に戻れと言われたことと、もう一人の上司は「俺の目の黒いうちはお前をみているから今回の事は気にせず頑張れ」と言ってもらえた時は天にも昇る気持ちでした。

 

しかし、会社というのは上手くしたもので都合の良しあしで私を目にかけてくれた人は別部門へ転勤になってしまってからは私もやる気がだんだんなくなって行き暫くしてから会社を辞めました。

 

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 」。夏目漱石の「草枕」の有名な冒頭の言葉で締めくくります。

 

 

先週にも書きましたが、11月13日から抗がん剤を変えました。

それまで、いろいろな抗がん剤や薬を服用してきましたが、抗がん剤の効果というよりも副作用の方が結構強く出ていたようなので腫瘍内科の先生と経過と結果などから点滴をやめて抗がん剤の飲み薬に変えてみました。

 

抗がん剤の飲み薬に変えてから体重の減少は止まったようで勿論多少の増減はありますが2㌔ぐらいの範囲ですので以前のように大幅な減少はありません。

まだ々安心は出来ませんが、やっと私に合った抗がん剤が見つかったように思っています。

 

毎週土曜日は“癌とともに生きる”というテーマで書かせてもらっていますが、癌それもステージ4という状態なので完治することはないと言われています。

 

が、しかし今年ノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶佑(ほんじょ・たすく)先生によれば2020年には癌は決して不治の病ではなく完治する病気になり、2019年には新しい癌に効く薬ができるということを確か少し前のテレビで聞いたことがあり、腫瘍内科の先生に本庶佑(ほんじょ・たすく)先生が仰ったことを聞くととウーンといったままでした。

 

抗がん剤の飲み薬に変えてから体重の減少は止まったようで勿論多少の増減はありますが2㌔ぐらいの範囲ですので以前のように大幅な減少はありません。

まだ々安心は出来ませんが、やっと私に合った抗がん剤が見つかったように思っています。

毎週土曜日は“癌とともに生きる”というテーマで書かせてもらっていますが、癌それもステージ4という状態なので完治することはないと言われています。

 

本庶先生の研究は従来の免疫療法と何が違うのか?

そして抗がん剤治療との治療効果はどちらが優っているのでしょうか?

 

癌は本当に不治の病なのか、完治しないのかということを考えていて本庶佑先生のノーベル生理学・医学賞受賞が癌治療の新しい道を拓くものであると思っています。

 

化学治療を専門分野とする先生からみると免疫療法は、これまでの治療実績というものに見るべき効果がなかったことから免疫療法を疑問視していることがあるのかも知れませんが、今回のノーベル賞によって見方も変わってくるのではないでしょうか。