我が幻の定年企画(1)~夢か希望か~就職に悩んだ頃 | 電気屋さんの日常 ~ 平々凡々日々修行 ~

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本来なら年齢は還暦を越え定年ライフへ一直線だったはずの自分が定年のない経営者という立場になってしまった今。
もし、平凡なサラリーマンのまま今を迎えていたらという事実はなく想像の世界へとなってしまいました。そこで何が起点になったのかを少し振り返るというか懐かしく考えてみようと記憶のあるうちに書いてみることにしました。

1984年。大学4回生になった平凡なサラリーマンを目指す私には夢がありました。
やりたい仕事はなんだ…自問自答を繰り返すもずっと答えが出なかった。
それもそのはず…法学部へ通うも専攻は国際法という今でも耳にはするが使いもんになるんかと思う法律。
国際法違反だと指摘してもそれで罰せられる国はほとんど…ない。
効力はあるのか?なんて考えてしまうとお世話になった国際法の権威の教授には怒られるだろう。

どう考えても法学の勉強が私の就職に影響を与えた節は…ない。

学生時代一番最初に始めたバイトは喫茶店。
時給500円のホールウエイターである。ようは水持って行って注文聞いてコーヒーやオーダー品を客に運ぶ。あとはレジと掃除くらい。実に簡単だ。500円の時給は当時基本額くらい。安くもないし高くもない。

ただ単に大学の授業の空き間を埋めることができて、自分の遊ぶお金が欲しいので始めたバイトでした。
しかし、授業よりバイトのほうが毎日いろんな出会いがあったり、社会的学びがあったりと…変化が楽しめるようになっていき、やがてホールから調理のほうへとバイトの役割も変わり面白みができてどっぷり喫茶にはまっていったのです。

他にも家の近くの喫茶店でのバイトを掛け持ちラウンジのボーイやパチンコ屋の駐車場係などを経て4回生まで来たが、大学時代につけたスキルは喫茶の調理と原価計算くらい…。
こんな生活を送っていたので夢は喫茶店の開業となっていくのが常道だった。

就職試験で真っ先に思い付いたのは喫茶店開業するならコーヒー豆や調理品を卸していた神戸市内の企業。
まぁ有名な企業で募集も100名程度の新卒を集めていた。順調に試験をクリアして何度か試験を受けた後、重役面接まで来た。どんな印象だったかはわかりませんが…結果を待つ間に確認の電話が来た。うちへ来る意思はありますか…そんな内容だったように思います。

この時、同時に受けていた企業では社長面接まで至った会社があり、2択で悩んでいた。
こちらは新2部という新しい株式市場に上場を目指すベンチャー企業。
職種はベンチャーと言えず既に確立されている感はありました。

喫茶店を開業するためのその1を学びながらその業種の企業へ就職するか、夢は後回しにして出世欲をもろ出しにして一攫千金上場景気に乗るか…。
2者択一の中、20歳過ぎの学生には一攫千金の方が夢をぶち破ってきた。

結果はそのベンチャー企業へと就職先を決めたのでした。

蛇足ではあるが私には母の仕事を継ぐという第3の選択肢もあったのです。
母が祖母から次いで正業にしていたのは小唄という邦楽のジャンルを人に教える家。
祖母が開派した一門で母は2代目の家元と言われる存在でした。

当然、家元継承第1位の私は生まれてすぐから邦楽のあらゆるジャンルを教え込まれる訳ですが…それも昭和の流行でオイルショック以降はすっかり斜陽産業となってしまいました。
計算苦手な私でも即答できるほど家業は苦しい世界でした。

就職するときにようやくもう少し選択し広げてもいいなぁと後悔していました。
ただ、私は翌年昭和60年大阪八尾に本社のある企業へと就職を決めて卒業を迎えるのでした。

夢か希望か…。わりと迷いました。そんな就職時の一端でした。