今日は身体が重たくて、全然起きられなかった。ようやっと起きてのんびり過ごしている今も身体は重いし、だいぶ眠たい。

もともと朝は弱い人で、こどもの頃は「きっと低血圧なんだ」と言い聞かせてそのことを肯定してきた。

なんでそんなことをしてきたのかと言えば、朝はすっきりと目が覚めて元気に学校に行くのがいいことだと思っていたから、それが当然だと思っていたからだと思う。

いまも時折、朝起きられない自分は情けないなぁと思うことがある。いや、うそだ、「情けない」ではなくて、朝起きられないことを「もったいない」と思うことがある。

 

たまに、よくわからないけど朝5時くらいにパッと目が覚めて、そのまま軽やかに起きられることがある。

そういうときは朝から本を読んだり、こんな風に何かを書いたり、仕事があれば仕事をしたり、掃除をしたりして過ごす。

それらに時間を使って一休みするかと思って時計を見ると、いつもこれから起きるかどうかの時間になっていて衝撃を受けたりする。朝起きられたら時間をこんなにも有効に使えるのか…と思って、いつも時間を無駄にしているんだなと感じてしまう。でも、私は朝が起きられない、無理に起きようとはしない。

 

こんな風に、時間を有効に使う・時間を無駄にするというのは、日常で平気で使うし、それが良い悪いの評価軸として無意識に、そして当たり前に私たち(少なくとも私)の中に刻まれているように思う。人生は有限だし、あらゆる資源も有限だから、それはごく自然なことだろうとは思う。

でも、私が朝無理に起きても、時間を有効に使えるようになるとはとてもじゃないけど思えない。私が朝起きられないのはなんらかの事情があると思っているし、「寝ていたい」私を否定したところで、それこそ限られた時間が「もったいない」と思う。

とはいえ、起きられなくて刻々と時間がすぎていくことを「もったいない」とも確かに思うから、それは「無駄」のように思えなくもない(から、YouTubeなどで英語のリスニングを枕元で流したりして有効に使ってる感を演出している自分がいる苦笑)。でもそうだからこそ、たまたま早く起きられたらラッキーと思って、その時間を「有効」に使おうと思えている気がする。毎日私が起きられる人になったら、そんな風に使おうとは思わないことが容易に想像できる。

 

この話はそもそも何が「有効」であり何が「無駄」なのか、「有効」でないといけないのか、「無駄」じゃダメなのか、ていうか「無駄」って誰が決めるのかなどなど、そういう問いにまで及びそうな話だけど、そんな問いを立てた途端に、ただ垂れ流されてこの場に置かれたものではなく、この話にはなんらかの意図があるように見えはじめ、誰かに見られるものとなり、評価の対象となるように思う。

今日、私はとてつもなく起きられなかったし、私は朝が苦手なのだというそれだけの話と、それに纏って出てくる思考をただ置いておきたかっただけなのがそうじゃなくなっていくのは、なんだか不思議(まあ、置いておきたかったという時点でなにかのメッセージ性がそこにあるというのも、それはそうなのかもしれない)。

かく言う私も、社会が"よくなること”以外はしたくないといつも思っているから、この記事は「無駄」だという目線もあって、むしろ「無駄」と思うからこそちょっと書いてみようと思って書いている側面がある。

すると、ただただ垂れ流してみようと思って特にちゃんと考えずにただ書いているこの行為を「無駄」のように見てしまっている自分がいることに気付かされて、そんな自分を「情けない」と思ったりもする。反省したい気持ちになってくるけど、それは「有効」なのか「無駄」なのかと問うてみようと思ったら一気に疲れを感じて眠たくなってきたので、これで終わりにしようと思う。そのまま宙ぶらりんにしておくこともまたいいのかもしれない。

ただ座ってこんな風に書いているのが「もったいない」と思ったことでエアロバイクを買ってしまい、漕ぎながらこれを書いている自分に「いいね」という気持ちと滑稽に思う気持ちを抱きながら(エアロバイクを漕ぎ続けて疲れてきただけなのかもとも思いながら笑)。