平和な内容を(久々に)投稿してきましたが、徳島県三好市でのお試し暮らし体験記もぼちぼち終わりとなりそうなので、続けて平和なことを書きたいと思います。

三好市についてはそもそも番外編の記事が多く、あまり三好市のことを書けなかったように思い勝手に悲しいのですが(じゃあ書こうよという話ですが)三好市は個人的にはいつか住みたいと心の底から思える地域として、お試しを終えて一年以上経つ今もとても気になっています。

そう思う理由はたくさんあるのですが(月並みな話&ほんの一ヶ月いた程度なので何がわかるんだという話でもありますが)ひとつは人がとても温かく、軽やか?な感じで心地良かったことが挙げられます。
オンライン面談から実際の生活でもきめ細かくご相談に乗ってくれたスタッフの方々。

何度も日程の相談をしてしまったり、お邪魔したときにちょうど台風がくるということでわたわたしていた中、経験則と実際のハザードなどで安心させてくれたり、(これは次の記事で書きますが)妖怪好きと言えば妖怪博士にアポを取ってお話する機会などを作ってくださったり…などなどと、本当に本当にありがたかったです。

お店の方も気さくに話してくれ、歯医者さんに関してはめちゃくちゃ楽しませてくれ(笑)あぁ…また行きたい、あの人に会いたい、という思いがたくさん出てきます。


日本酒に関してはいつか全部まとめようと思っていますが(執念)米舞さんでお世話になった三芳菊酒造さんのお酒はネット注文もさせてもらいました(また頼まねば)。

 

 

 

 

 

人の縁で生きてきた私からすれば、一期一会クラスだったかもしれなくても、こうした縁には感謝しかないなぁと思うばかりです。

そして、歴史と生活とが地続きである感じが見えるというか、新自由主義的なものからは逃れられないにせよ、そうしたことと違う価値観がしっかり地域にあるような気がしていいなぁと思ったのもまた行きたい・住んでみたいと思った理由に挙げられます。
たとえばですが、一つ前に書いた落人伝説のこと、ずいぶん前に書いたたぬきのことなどなど、それらが地域の姿に確かに残っていてとてもおもしろいなぁと思うのです。
これらは『徳島の謎』にも載っていてーというかこの本の内容の多くが三好市に関する話になっていることがこの地域の謎さを物語っているようにも感じるーかずら橋が架けられた俗説は

同地に伝わる平家の落人伝説がある。落人伝説は子孫を名乗る地元の阿佐家などに語り継がれるもので、元暦二年、讃岐国で行われた屋島の戦いに敗れた平家一門の平国盛らが祖谷の地へ逃げ込み、そのまま住み着いたものだ。

かずら橋は彼ら落武者たちにより架けられ、追手が攻めてきたときにいつでも切り落とせるように、吊り橋にしたと伝わる。

とありました。


いまもそれを残し続けていること(観光地化しすぎてしまうなどの問題もきっとあるにせよ)は地域のアイデンティティでもあるんだろうなと感じたりします。
山城ではたぬきの町でやばすぎたことを書きましたが、そもそも

徳島には「わからないことは狸のせいにする」という風潮があり、狐が登場する逸話は少ない

ようで、その理由は弘法大師が狐を嫌ったとか、実際に阿波には狐がほとんどいない(狸は多い)ということもある(のでは)とされているようです。めちゃくちゃおもしろいなと私は思います。
他にも秘境駅がある話などなど、魅力的なことがたくさんあるので、本はもちろん、ぜひ実際に訪れてみてほしいなと思います。

 

 

他にも、個人的に興味深かったのは三好市の地名が

トウゲにヤマダ、マチ、果てはサラダ、ソラと、片仮名だらけになっている。

というところで、

「サラダ」の元は「更田」で、更の田んぼ、つまり新田という意味。ただし漢字表記では「皿田」と書くため、サラダ地区は皿のような地形であったとも考えられる。

とありました。

「ソラ」は大歩危・小歩危がある祖谷地方のことで、マチは池田地区の中心地を指す

ことで使い分けられてもいるようで、そもそも

この不思議な地名の由来を知るには、明治六年(一八七三)に布告された地租改正に遡る必要がある。 それまで米で納めていた税、いわゆる年貢が、地価の三パーセントの金納に変わるにあたり、土地の評価額が調査されることになった。
(略)(測量技師は)検地書に記す小字を決定する際、その土地で呼ばれていた地名をカタカナで書いた。
また、当時の教育はひらがなや漢字より片仮名優先で行われていた。そうした理由で、片仮名の記録がそのまま台帳に登録され、片仮名だらけの珍奇な地名が正式な地名として定着していったのである。

ともあります。
こうした不思議な?独特な?地域には眠っているものが多くありそうで、掘り進めていったらいろいろな興味深い発見があったりするのではないか…などと思ったりします。